Otterbein, K.F., 1999, ' A history of research on warfare in Anthropology', American Anthropologist 101: 794-805.

人類学における戦争研究史
 

■要旨
 人類学における戦争研究の歴史を4つの時期(創立・古典・黄金・現状)にわけて略述する。ローレンス・キーリーの主張とは違い、「平和な野蛮人神話」は古典期にすでに現れていたもので、より新しい時期に生まれたものではない。また、文化相対主義からだけでなく、初期の進化主義アプローチの中からもその萌芽がみられる。「平和な野蛮人神話」は現在の戦争研究にも大きな影響を及ぼし続けており、また他方では、人間は始源から戦争をおこなってきたと主張する人びとがいる。

■イントロ
・この10年間に戦争研究は盛んになった。サイエンスライターのブルース・バウアーの著書が人類学の戦争研究を一般に広く知らしめ、一方二つの人類学者(一人は考古学者、他方は霊長類学者)の著作が出版され、学問分野を超えてレビューされた(Keeley 1996; Wrangham and Peterson 1996)。歴史学者、政治学者、生物学者など、無文字社会の戦争の情報を得たい人類学者以外の研究者に人類学の研究は親しまれるようになった。

・この論文は、包括的なものではないが、人類学の戦争研究史を4期(創立、古典、黄金、現状)に区切って設計してみることである。

・ここに簡潔で正確な戦争研究史を示す理由は、ローレンス・キーリーが描いた不正確な研究史に対抗するためである。キーリーの目的は「平和な野蛮人神話」を拒否することである。本稿の目的は、神話が存在しないことを示すことではなく、またキーリーが代わりに登場させる「戦争好きな野蛮人」(オッターバインの造語)の正しさを問うものでもない。彼の信じる新しい神話が不正確であることについては、すでに別稿で述べた(1997)。

・筆者がとるアプローチは、過去の戦争研究の成果が現在からみて有効かどうかを考えるのではなく、それらが当時の同時代人によっていかに受け止められたかをみることである。同時に、当時の世界がいかに研究に影響を与えたかを明らかにする。植民地の拡張、第二次大戦、ベトナム戦争は明らかに、戦争研究の結果だけでなく研究の動機にも影響を及ぼしている。そして現在では、民族紛争と国民国家の解体が研究に影響を与えているのである。古典期の最後を院生として過ごし、1961年に戦争研究を志した筆者自身の経験も「インフォーマント」とすることを躊躇しない。

<創立期1850-1920>

・モルガン、タイラー、ボアズらが人類学を確立したこの時期、戦争研究は(1)彼らがフィールドワークをおこなっていた時期、戦争は進行中でなかった(2)彼らはモラルとして戦争に反対していた(3)現地の社会における戦争の役割の重要性を正しく認識できなかった、という3つの主要な理由により、人類学の主要な関心事ではなかった。

・主要な関心ではなかったとはいえ、戦争は民族誌記述の一部であった。タイラーは最初の通文化研究書とみなされている『制度発展の調査方法論』(1888)において、女性の略奪を母系制から父系制への移行に関わる重要なファクターのひとつとしている。

・1915年までには、Hobhouse, Wheeler, Ginsbergがより豊富なデータを用いて、戦争と捕虜の取り扱いについての通文化研究をおこなった。彼らもまた進化主義を理論枠とし、結論群のうち2つが戦争に関わるものだった。それは、(1)戦争をおこなわない社会は13/298しかなく、また狩猟採集社会では12%(7/56)にすぎない(2)捕虜の殺害は技術レベルが上がるに従って減少し、高次レベルの社会における奴隷制がその原因と考えられる、というものであった。彼らに限らず当時の戦争研究は進化主義図式に沿ったものであり、例えばピットリヴァーズは武器の進化を単純社会から複雑社会への流れにおいて論じた。

・この時期の顕著な特徴は(1)強力な民族誌データベースが利用可能になった(2)進化主義が戦争や軍事研究のための唯一の理論枠だった、ということである。20世紀初頭にボアズや弟子たちが反進化主義を唱えたにもかかわらず、進化主義アプローチは戦争を研究する人類学者による第一の理論的アプローチであり続けた。奇妙なことに、それは次の古典期の思考をも支配した。

<古典期1920-1960>

・この時期はいうまでもなく、アメリカ人類学界がボアズとその弟子たちに支配され、反進化主義と文化相対主義がピークに達した時期である。キーリーによって「平和な野蛮人神話」と表現されたものが現れたのもこの時期である。キーリーによれば、この神話は、未開の戦争は気まぐれで効果が少なく、素人的で真剣なものではないという誤った信念である。この神話は、(1)先史時代は平和であるという観念(2)狩猟採集民やバンドレベルの社会は戦争をしなかったという信念(3)部族レベルの戦争は儀礼的でゲームのような性質のものであるという仮定、という3つの側面を内包する。

・神話がこの時期に発展したと指摘する分にはキーリーは正しいが、それをハリー・ホイジャーとターネイ・ハイのせいにするのは誤りである。ホイジャーは650以上の社会に関する通文化研究をおこない、狩猟民の8%は戦争をせず、75%は「社会的戦争」をおこなうとした。(社会的戦争は経済や政治目的での戦争ではなく、名誉のためのもので、オッターバインが「威信目的の戦争」と呼んだもの。)キーリーはホイジャーが50〜60年代に最もポピュラーな人類学教科書をビールズと共著で執筆したことによって神話が広まった、としているが、実際にはこの教科書には、狩猟民が戦争をしないという記述はない。よってホイジャーを原因とするのは誤りで、むしろChapple and Coonの「人類学原論」のほうが可能性があるが、キーリーはこれに言及していない。

・ビールズとホイジャーの教科書が広く読まれたのに対して、ターネイ・ハイの本はあまり知られていない。これを読んで引用した人類学者は私の知る限り、自分自身をのぞいて5人ほどしかいない。ここでは私自身のことにしか言及できないが、読んだ限りではターネイ・ハイは、バンドや部族レベルの社会が平和的であるとか気まぐれな戦争をしているとか主張したりしてはいない。彼は、未開の戦争は「軍事的地平」に達しておらず、効果的でないと主張しているにすぎない。

・ホイジャーのせいにするのが誤りとすると、神話の起源は何か。私は、それは創立期にまでさかのぼるものであり、進化主義の発展図式の中に埋め込まれていると思う。進化主義は変化の説明を必然的に伴う。第一次大戦が終わり第二次大戦に至る時期を含む古典期において、戦争が恐るべき災難だったとすると、未開社会において戦争は今ほど普遍的でも致命的でもなかったに違いない、ということになる。反進化主義の時代であるにもかかわらず、進化主義図式はこの時期維持され続けた。その典型が、血縁から地縁への移行を説明するロバート・ローウィの『国家の起源』(1927)である。

・ルース・ベネディクトは1939年に、未開の戦争は現代の戦争と異なり致死的なものではないとする論文を準備した。マリノフスキーは武装行動の進化を(1)原型としての、集団内の戦い(2)異質を調整する法的メカニズムとしての戦い(3)スポーツとしての襲撃(4)初期のナショナリズムの政治的表現としての戦争(5)組織的略奪としての軍事遠征(6)国家政治の道具としての戦争、の6段階に分けた上で、最初の3段階までを真剣でないものとした。

・Chapple & Coonは1942年に出版した教科書で、未開の戦争は現代国家の戦争と異なり、ラクロスゲームをするようなゲーム的な行動であるとした。レスリー・ホワイトも、人間の文化レベルが高くなるにつれて政治経済的目標が戦争の原因になると論じた。ホワイトの弟子ニューコム(1960)は、戦争をライト(ホイジャーの戦争研究の採用者)にそっくりの4タイプに分けて説明した。ベネディクト、マリノフスキー、チャップル&クーンはライトやターネイ・ハイの出版以前にこれらを発表しているので、彼らに影響を受けた可能性はないが、ニューコムはターネイ・ハイを引用している。

・進化図式の論理を使っているという点に加えて彼らに共通することは、ホブハウス、ホイーラー、ギンズバーグ、ホイジャーなどの先行研究の成果をあまり理解していなかったのではないかということである。(戦争をしない狩猟民は8〜12%しかいないこと、捕虜の殺害が単純社会の75%で起こることなど。)あるいは、「狩猟民には戦争をしない集団が存在する→狩猟民は平和的である」というように、先行研究の成果をゆがめてしまったのかもしれない。

・この時期に神話が生まれた理由としてもうひとつ可能性があるのは、文化相対主義の発展である。自由主義、人間主義の観点に立つ文化相対主義者は、無文字社会の人びとは野蛮ではなく穏やかであるはずだというロマン主義的バイアスを持っていた(エジャートン(1992)のいう「未開の調和という神話」)。こうして、本当は戦争好きなアラペシュやサモア人は、ミードによって「子供のような人びと」として描かれ、深刻な戦争の歴史を持つズニは、ベネディクトによって「アポロ型」とされた。戦争や暴力の記載は人類学の教科書からはずれる傾向にあった。ヤノマミすら平和的に描かれる努力がなされ、シャノンの民族誌は第4版から「獰猛な人びと」という副題が削られた。

・またこの時期には、コロンビア大学の博論に見られるように、戦争を扱う多くの堅い民族誌研究があらわれた。これは後に、創立期の資料とともに、通文化研究をおこなう上での基礎資料となった。これらによって人類学者は平和な野蛮人神話を拒否することができたはずだが、実際にはそうはならなかった。

・古典期の顕著な特徴は、平和な野蛮人の神話だった。これは創立期に根を持つ進化主義によって芽生え、文化相対主義を肥やしとして育ったのである。こうして出来上がった神話は、後に続く二つの時期の研究に影響を及ぼすことになった。

<黄金期1960-1980>

・60年代以降、戦争研究は飛躍的に増加。80-85年の間は緩やかな減少(80年代後半から再び上昇)。よって、この時期を「黄金期」とした。

・この時期に、戦争の原因と結果に関するさまざまな理論が生まれ(表1)、民族誌の古典があらわれた。
・表中の理論のうち、70年代を通じて、生態的適応が重要になった。生態アプローチをとる人類学者は戦争を社会生活の重要な側面とみなし、それに反対する者は戦争を機能でなく機能障害とみなした(Hallpike 1973)。こうして二つの派が形成されるようになり、90年代に結晶化することになる。

・「戦争好きな人びとの民族誌」古典:ヤノマミ(Chagnon 1968)、マリン(Rappaport 1968)、ダニ(Heider 1070; 1979)。「平和な人びとの民族誌」古典:ブッシュマン(Thomas 1958)、ピグミー(Turnbull 1961)、セマイ(Dentan 1968)。平和な民族誌は神話を補強したが、批判を浴びた(ブッシュマンはかつて戦争をしていた敗者であること、ピグミーはバンツーに対する政治的自律性を失っていること、セマイは何十年も他民族の侵略を受けていること)。また事実、デンタンはセマイが平和的なのは奴隷狩りに対する反応であること、時に暴力的になりうることを認めている。しかしこれらの民族誌は人間は平和的であると主張する人びとの取り引き材料となった。

・もうひとつの古典として、ハートとピリンが「儀礼的戦争」をおこなう人びととして描いた民族誌(The Tiwi of North Australia, 1960)がある。これも神話の補強に貢献した。実際には、ティウィの戦いには待ち伏せ・不意打ちによるものと横隊によるものの二つのパターンがあり、前者こそが多くのダメージを与えるものであることが後に明らかになった。「儀礼的戦争」の偏見をピリンが払拭するのに、30年ほどもかかったのである。

・ナロール(1966)とオッターバイン(1970)による二つの通文化研究によって、ライト(ホイジャー)の「防御戦争/社会的戦争/経済戦争/政治戦争」という発展図式が正しくないことが(ガットマンスケールによって)明らかにされた。社会的戦争には経済的背景が必ず存在し、その逆はいえない。また、防御的側面はどんな戦争にも存在する。経済、防御が卓越するという事実はまた、無文字社会の戦争がゲームでなく真剣なものであることを示している。

・なぜこの時期が「黄金期」なのか?(1)50年代末から、人類学者そのものが急増した(2)ゲリラ戦争であったベトナム戦争は、朝鮮戦争などと異なり、「未開の戦争」に似た側面を持っていた(3)ニューギニア、アマゾン、西・中央・東アフリカなど、文化変容を受けていない地域のフィールド調査が可能になった。

・神話はこの時期にも継続し、影響を与え続けた。ディベイル(1971)の儀礼的戦争などが描かれた記述は現在に至るまで、脱文脈化された上で正しい記述として歴史家に使われている。

・横隊による集団間の戦いは敵の戦力を試す手段であり、待ち伏せや急襲は敵を大量に殺害する手段である。「儀礼的戦争」は、例え存在するとしても、戦争パターンの一要素でしかないのである。

・神話は、ウィルソンの『社会生物学』に対する反論にも登場する(「人間の科学のための社会生物学研究グループ」1976)。彼らはLivingstone 1968の文献を引用しつつ、未開の戦争が人口的にも遺伝的にも影響を与えるものではないと書いているが、これはリビングストンの論文の内容と整合的ではない。ウィルソンはこれに対して、軍事活動と領域拡張は歴史を通じておこなわれており、人口や遺伝に影響を強く与えていると反論している。

・黄金期の顕著な特徴(1)理論的にも民族誌の数でも、戦争研究の量が飛躍的に増え、16の理論が提出された(2)バンドや部族民が戦争好きであると主張する人びととそうでないという人の二派が形成された。

<現状期1980->

・この時期の特徴(1)16の理論のうちの7つのみ生き残り(表参照)、単一モデルによる因果関係の説明が出現した(2)研究の方向は戦争の起源と重大性、民族紛争とジェノサイド、平和な人びとの研究、などに収斂。戦争研究の主要な人類学者(ヴァイダ、オッターバイン、ディベイル、ハリス、シャノン、カーネイロ、コーエン、ケリー、ファーガソン)の著作は表に示したパラダイムに合致するようにみえる。

・理論的収斂が見られる反面、一度は破棄されたと思われた理論の復活も見られる(生得的攻撃性、伝播と文化変容(部族ゾーン理論)、文化進化論(戦争の起源)など)。

・創立期と古典期に重要視された戦争の起源と重大性の問題は、霊長類学者や考古学者の問いも加わって息を吹き返した。チンパンジーのバンド集団の近年の観察結果により、人類の祖先も同種を攻撃するのだという考えを復活させた。ランガムとピーターソン(1996)は、チンパンジーの集団はヒトとの共通祖先の時代からほとんど変わっていないはずだという推論から、戦争の起源は新石器時代でも旧石器時代でもなく、500万年前にまでさかのぼるのだと主張する。

・また、キーリーは考古学的証拠、民族誌の事例、通文化研究の統計を援用して、破滅的な戦争が先史時代を通じて普遍的にみられることを示した。こうして霊長類学からの予期せぬ援護もあり、キーリーは平和な野蛮人神話の信奉者に対して勝利宣言をおこなう。ただし、ランガムらの主張に対しては、論理とデータの双方の点でロバート・サスマン(1999)が批判をおこなっている。

・上記のアプローチと対照的なのが、ウォーフ(1982)の世界システムアプローチや、ファーガソン&ホワイトヘッド(1992)の部族ゾーン理論で、これらは古典期の伝播-文化変容アプローチやカルチャー・コンタクトアプローチにつながるものである。彼らは部族ゾーンの戦争は国家の拡張に伴って生じたとし、(1)抵抗戦争(2)民族軍(3)相互殺戮戦争、の3つのカテゴリーに分けられるとする。ここでは、我々が観察したネイティブの戦争が内部発展によるものか、カルチャーコンタクトの結果かということである。

・キーリーはファーガソンらの部族ゾーン論者を神話の信奉者としているが、ファーガソンはそれを否定する。筆者は、これらはタカ派とハト派に区別するのがよいと思う。タカ派はキーリーを筆頭に、人類学者のカーネイロ、軍事史研究者のフェリル、キーガン、マクランドル、オコーネル、霊長類学者のランガム、生物学者のエーレンリーチ。これに対するハト派は、ファーガソンのほか、人類学者のサーヴィス、ホールパイク、スポンセル、グレゴール、政治学者のガブリエル、考古学者のハースなどである。キーリーはファーガソン&ホワイトヘッドを神話の信奉者とするが、筆者はむしろハト派の頭目はスポンセルとグレゴールとみるのが正しいと思う。筆者の立場はといえば、先史学的証拠からはどちらのイデアルタイプも支持され得ない。

・もうひとつの最近の関心は、民族紛争とジェノサイド。これらは国家の拡張の結果のみならず、解体の結果とみることもできる。ノードストロームとローベン(1995)はこのトピックについてのレビューをまとめ、フォスターとルーベンステイン(1986)はこれを平和研究と結びつけた。エラー(1999)はいかに文化や伝統がエスニックアイデンティティに変形し、エスニシティが紛争に結びつくかを論じる。

・平和社会の研究は最近発展をみせたものである(Gregor 1996; Howell and Willis 1989; Sponsel and Gregor 1994)。ボンタ(1993)は47の平和的な人びとについてまとめた。グレゴールは、平和な社会は稀だが研究に値すると論ずる。デンタン(1994)は、平和な社会は、アミッシュのように孤立した集団か、セマイのようにきわめて小規模な集団のいずれかであると論じた。グレゴールは彼らの成果をまとめ、『平和の自然史』(1996)を編んだ。

・この時期に顕著な特徴は、(1)単一の理論モデルで原因と結果を説明する研究が増加(2)戦争は人間の本性であると主張する人びとと、人間は平和になることができると主張する人びとの争い。前者は戦争を人間の本性と見、後者は国家形成の結果であるとする。

・150年の間戦争に関する民族誌データベースは蓄積し、その多くは戦争に関する卓越した記述を含み、少数は平和な人びとに関する記述である。ほとんどの時期において戦争研究に支配的なモデルは、文化進化論によるものであった。平和な野蛮人の神話はこの進化主義的思考から生まれ、文化相対主義によって育てられた。キーリーは1960年代以降に神話が生まれたとするが、実際には何十年も早くから存在していた。彼による正反対の神話は、タカ派とハト派の両極化を生んだ。

・進化主義を凌ぐような理論は生まれなかったものの、戦争の原因と結果を検証するパラダイムが、いかなる状況下で戦争や暴力が生じるかを知るのに役立つことがわかってきた。戦争の性質や頻度には大きなバリエーションがあることが明らかになっており、このバリエーションやそれが生じる理由こそ、研究するに値するものである。

<ホワイトヘッドによるコメントの概略>

・オッターバインの議論の範囲は狭く、戦争と暴力の研究に対して影響を与えた多くの重要な知見を見落としている。

・オッターバインは冒頭で戦争研究を公に知らしめたものとしてブルース・バウアーをあげるが、実際には(これも多くのメディアでとりあげられた)評者とファーガソンのWar in the tribal zone 第二版序文で示したように、もっと広い成果がある。(Renato Rosaldo 1980 etc...)

・戦争と暴力に関しては、政治的動態や経済的帰結のみならず、文化的意味を考慮するべきである。首狩りや人肉食、拷問、強姦、身体損傷などの暴力は、必ずしも戦闘のパーツではなくとも、その実行者や犠牲者の心的側面に何らかの関連性を持っているのは明らかだし、実際民族紛争などの形で再びあらわれつつある。暴力がいかに近代やグローバリゼーションに結びつくかを考慮することは重要である。(Appadurai 1996 etc...)

・オッターバインの言うように、研究史の考察は有益である。しかしキーリーなどは「平和な野蛮人」神話に反対する最初の人であるはずがないし、19世紀になってはじめて登場したわけでもない。平和な野蛮人像と凶暴な野蛮人像は、ホッブズとルソーの対照のように、はるか啓蒙主義の時代にすでに鮮明にあらわれているのであって、「古典期」に未開をロマン主義的にみる傾向が生じたからではない。

・オッターバインの狭い視野は、研究史だけでなく戦争そのものに関しても、歴史性を軽視する傾向を招いている。彼は平和的とされる集団でも実際には暴力が観察される点を強調するが、これらの報告例の背後には、Bodley (1990)も明らかにしているように、とくに19世紀末から20世紀初頭にかけての(近代国家による)「平定」キャンペーンに対する反応として生じている点を考慮すべきである。

・戦争が機能であるにせよ機能障害であるにせよ、未開の暴力がどんな効果を持っていたにせよ、我々が考慮すべきことは、西洋の戦争の形式は「軍事的地平」(ターネイ・ハイ)に達したものであり、その完膚なき勝利への欲求は、西洋の戦争をその他ほとんど全ての闘争文化から分かつものである。この西洋の戦争文化によって他の文化は同化ないし全滅させられたというのが『部族ゾーンにおける戦争』で提起したポイントであり、こうした点から「ジェノサイドの戦争」は組織的イデオロギー的に国家システムに特有のものなのである。

・オッターバインの以上のような軽視によって、80年代以降の記述についても不正確さがあらわれている。ランガム&ピーターソンの議論は「キラー・エイプ」(Ardrey 1966)の最新パージョンであり、70年代の社会生物学への回帰の兆しである。また評者らの「部族ゾーン」の議論は、オッターバインの言うような「伝播・文化変容モデル」ではない。評者らは植民地期以前に戦争の起源があると主張しているのではなく、植民地戦争の経験によって多くの点で変化が生じたというものである。中心からの伝播というものではなく、模倣や弁証法的プロセスをさしている。

・同様に、オッターバインの「タカ派とハト派」というメタファーによって、戦争研究者たちの重要な特徴が覆い隠されてしまう。例えばキーガンはタカ派に分類されるが、The face of battle(1976)によって彼は戦争を初めて文化的背景や人文主義の視点から描いた人間である。

・暴力という行為は文化的なふるまいであり、文化的な分類システムが分析のキーとなる。殺人や致傷行為はでたらめや偶然によって起こるのではないし、単なる機能でもない。それは民族的アイデンティティやセクシュアリティ観念の構築、伝統や近代の諸観念を主張するために使用される(Appadurai 1996; Tambiah 1986 etc...)。文化的に多様な暴力行為がそれぞれ他の表象にいかに影響し、それが暴力行為の形式にいかに影響し、またそれが暴力そのものが文化的実践を定義する仕方にいかに影響しているのか。人類学が答えるべきはこの種の問いに対してであり、またオッターバインのレビューに取り入れられるべきものはこの種の問いに対する諸文献である。

<スポンセルによるコメントの概略>

・オッターバインは戦争の定義を広くとりすぎることによって、集団間の攻撃性の多様性を正しくとらえることに失敗している。

・軍事史研究者のキーガンですら、ヤノマミの事例を戦争と呼ぶことに反対している。一方で、ブラジル人はヤノマミの事例を意図的に戦争と呼んで、平定を正当化してきた。実際のねらいは、ヤノマミから土地をとりあげることである。

・オッターバインは評者の文献(1998)を「ヤノマミを戦争好きでないと描くもの」と決めつけたが、実際にはそれらは評者の視点のみならず、詳細なレビューを含むものである。

・こうして戦争の定義を広くとることによって、ある種の通文化研究者たちは戦争は人類に普遍的なものとする。しかし文化的多様性や歴史政治的コンテクストは無視する。逆に、戦争の定義をごく狭くとれば、戦争は普遍的でも一般的でもないと考えることもできるのである。要するに戦争の定義は多くの著者たちにとってイデオロギーを表象するものであり、anthropology of war は apology of war に矮小化されてしまうのである。

・オッターバインがタカ派と呼ぶ人びとはこの意味でのapologistであり、また彼のタカ・ハトという分類はベトナム戦争の遺産であり、今更このような言葉を使うことで、偏見の助長・単純化をおこなっている。平和の研究は、病気と健康の研究のように、戦争の研究と相補的なものであって、競合するものではない。

・平和というのは単なる「戦争の不在」ではない。また、珍しいものでもない。

・ヤノマミは平和な側面を強調して描くこともできたにかかわらず、「獰猛な人びと」というラベルが定着することによって、深刻な問題が発生した。アマゾンのゴールドラッシュの時期のジェノサイド、エスノサイド、エコサイドの犠牲となっていたまさに同時期に、ヤノマミは「ホッブズ的野蛮人」というイメージを持続させられていたのである。

・戦争や攻撃性研究にみられるバイアスは、米国や西洋文明に浸透するバイアスに由来している。その好例がランガムとピーターソンのチンパンジー研究である。彼らはドゥ・ウォール(1989)や加納(1990)ボノボ研社会究の事例をモデルにあわないという理由で無視している。

・オッターバインはブッシュマン、ピグミー、セマイを平和社会の民族誌的古典とした上で、そうした視点が批判されてきたとするが、その批判の詳細を語らない。これらの社会が平和であるという視点を批判する修正主義者は、戦争と殺人を混同している。

・逆に、オッターバインが典型的な戦争好きの事例としてあげるヤノマミ、マリン、ダニについて見直す必要があるといわれていることには、彼は言及しない。ファーガソンとホワイトヘッドによる研究は、アマゾンなどの社会が1960年代まで文化変容を受けなかったという(オッターバインも書いている)従来の考え方が神話であることを暴露している。

・オッターバインのタカ・ハトモデルは、よくてわら人形攻撃であり、最悪、マリノフスキーがすでに理解していたような誤謬に導く本質主義である。

・「民族誌的現在」の視点からの90年代の戦争研究こそ新しい必要な視点を多く持っており、これらの諸研究はオッターバインの「鳥類学」よりもよほど重要である。

・人類学者はある種の戦争のリアリティに沈黙しており、その典型がヌエル研究である。最近の8つのヌエル研究はいずれも「民族誌的現在」を扱ったものだが、歴史に言及したものは1例のみである。ヌエルに関するリアルな説明は、83年以降、100万人が負傷し、50万人が死亡し、600万人が難民となったスーダン内戦を含むものであるはずである。

・ノードストロームとローベンの編集したFieldwork under fire (1995)は、純アカデミックな研究や化石化された「民族誌的現在」に限定されないホットスポットを扱うものとして重要である。

・評者を現在の関心に導いたのは文化進化論や文化相対主義のような理論によるものではなく、単に人間主義的な関心である。これらは研究者によって多様なはずで、簡単にまとめることはできないだろう。オッターバインのレビューも同様に未熟なものである。

<オッターバインのリプライ>

・私のレビューの目的は、戦争研究について網羅することではなく、クロノロジカルに人類学における戦争研究の特徴を明らかにすること、そして「平和な野蛮人神話」がいつどのように生まれたかを示すことであった。

・コメントはいずれも「戦争好きは人間の本性ではない」と信ずる側の人びとによるものである。

・スポンセルはマリノフスキーが60年前に私がおこなったような2分類を理解していたと書いているが、マリノフスキーはそれを「わら人形」などとは言っていない。

・私はタカ・ハトのいずれにも属していないし、実際キーリーを批判している。スポンセルは「ホッブズ的野蛮人」という言葉を新たにつくり、暗に私がそちらの側にいると言っているようだ。私は物質因、動力因と結果に焦点をあてる理論モデルを暗に支持している。スポンセルは戦争の理由に対する関心は戦争の合理化に近いと書いているが、彼は本当に戦争の原因を研究すべきでないと考えているのであろうか・・?

・スポンセルとホワイトヘッドの理論的立場は異なっている。前者はヤノマミのような小規模集団は戦争をしないというものであり、後者は「かつてはしなかった」というものだ。スポンセルはコメントの後半で本質主義を批判するが、「人間の本質は相対的に平和的なものである」と述べる彼こそ本質主義者であり、平和な野蛮人神話の信奉者である。

・ホワイトヘッドが『部族ゾーンにおける戦争』を私が誤読している、と述べているのは驚きだ。私はReviews in Anthropologyでこの本を高く評価している。彼は「この立場は伝播主義者のものではない」というが、私は「古典期の伝播主義・文化変容モデルの立場に近い」といっているので、このことは彼の共著者ファーガソン自身も認めている。

・スポンセルが「キーガンですらヤノマミに戦争はないと言っている」と書いているのをみてショックを受けた。キーガンが書いているのは、「ヤノマミやマリンのはレイディングであって、真の戦争ではない」ということである。

・キーガンは、人類学分野の研究の理解において、ホワイトヘッドらの影響を受けている。また逆にホワイトヘッドはキーガンの「西洋の戦争は、完膚無き完全勝利という考え方において、他の文化の戦争と異なっている」という考え方を受け入れている。私はこれらに批判的である。完全勝利をめざす戦いは少なくともBC1500年には存在していた。

・スポンセルが戦争を狭義に定義することを好むのに対し、ホワイトヘッドは様々な暴力をも戦争と同じ地平で扱うことを主張し、これらが私のレビューに含まれていないと非難する。しかし私はレビューにそれらを含めるのは今回の仕事ではないと考えただけで、これまでこうした側面においても研究をおこなってきた(極刑、犯罪、決闘、報復、ケンタッキーにおける報復事例、殺人と銃のコントロール、非戦闘員の殺害、強姦、暴力全般)。

・レビュー論文は戦争研究の歴史についての私の視点を表しており、戦争に関する私の理論とは別である。それについては私の論文集Feuding and warfare をみればよい。現在まとめているのは、'The origine of war' (1997) に基本的アイディアを表したテーマに関してである。私は国家以前の諸社会にも戦争は存在し、また別の社会には存在しなかったと考える。それは現在まで続いている。

・戦争研究については、ほとんどの人類学教科書がまともにとりあげていない。私は戦争研究の主要な理論を教科書に載せるべきだと考える。そしてそれにはスポンセルの平和の自然史理論やファーガソン&ホワイトヘッドの部族ゾーン理論をも含めるべきだと考える。

・2000年の春に、11人の大学院生とともに多くの古典的民族誌や教科書を調査した。その目的の一つは、以前私がリストアップした40の事例にあらたに加えるためである。驚くことではないが、多くの記述は民族誌的現在でも歴史的記述でもなく、様々な資料の張り合わせのようなものだった。最終的に、教科書に頻繁に登場した民族例をリストアップした(ヌエル、ヤノマミ、トロブリアンド諸島民、ブッシュマン、アザンデ、ムンドゥルス、サモア、ティコピア、カパウク、セマイ、ティヴ、アロール、クロウ、ジヴァロ、ティウィ)。

・マードックの『未開の同時代人』、サーヴィスの『民族の世界』に匹敵するようなものを、今誰かが企画しないものかと思う。諸文化の歴史は強調されるべきであり、特に軍事史と現状についてそれが言える。