自然の要塞としての森



 

 ■平和な森に突然ひびく銃声

  「しっ!サトウ、ちょっと静かに」隣にいたマジャンの友人、クシエンの表情が急にこわばる。「いま、隣の村の方角から銃声が聞こえた。ともかく急いで村に戻ろう」  とあるマジャンの村のはずれで調査をおこなっていた時のことだ。

 静かで平和そのものにみえる森の中の小さな焼畑の村である。昼間、女たちは畑にでかけ、談笑しつつ食事の準備をして1日を過ごし、男たちは森に入り、仕掛け罠の見回りをしたり、ハチミツ採集のための道具作りをする。気がのらなければ、村に残ってのんびりと過ごす日もある。今から10年あまり前、森の匂いにあこがれてマジャンの研究をはじめたわたしにとって、村のくらしはいつも期待以上の幸福感をあたえてくれるものだった。

  しかしこの3年ほど、何か少し様子が違う。一見のんびりとした生活のなかに、緊張した空気がある。村の人びとは、銃をもったアニュワ人たちが西方のサバンナから侵入して、いつ自分たちを殺しに来るかをおそれているのだ。アニュワ人はマジャンの森に隣接するサバンナにすむナイル系農耕民である。

  きっかけは2001年の夏に起こった。マジャンのすむ広い森林域の西端、サバンナに近いある村のはずれで、アニュワの男5人によるマジャン女性のレイプ殺人事件がおこった。ただレイプされ、殺されたのではない。首を絞めて殺された上に腹を切り裂かれ、四肢を切断された。

  この事件に気づいた村のマジャンの男たちは、ただちに犯人たちを追いかけ、逃げ遅れたアニュワの男2名をその場で殺した。その5日後、州政府の主催によってこの村で緊急の和平会議が開かれた。他村から多くのマジャンとアニュワが訪れ、ことを収めるための方策をさがしたが、うまく解決に至らなかった。

  会議の席でマジャン側は残りの犯人の引き渡しを要求したが、アニュワ側は犯人の逃走先が不明であるという理由で応じなかった。ここから事態が暗転していくことになる。長期にわたる凄惨な民族間の戦いの多くは、こんなきっかけから始まる。

その年の9月、まず数日おきにマジャンの男がひとりずつ、合計3名殺害された。いずれも銃をもった数名のアニュワの男の急襲で、アニュワのすむサバンナに比較的近い森の中の小集落での出来事だった。

 そして9月の終わり、マジャンのある村で酒宴がひらかれていた時だった。突然銃と槍で武装したアニュワの集団があらわれ、23名のマジャンが殺害された。被害者には女性や子供も多く含まれている。全員を木に縛りつけた上でひとりひとり槍で突き刺して殺すという、きわめて残虐なやり方だった。

 この時期マジャンは焼畑の伐採の時期をむかえている。焼畑の主は伐採のための助っ人を募り、皆で協力して森を伐り払う。仕事が終わった後の夕暮れになると主が酒をふるまい、労をねぎらう。疲労した肉体に心地よい酔いを与え、歌い踊る、幸せなひとときだ。そんな瞬間に悲劇が起こった。この事件を聞いたマジャンたちは皆、怒りにふるえた。
 



 
 

■おとなしい森の人びと、しかし報復は辞さない

 この残虐きわまりない事件が起こって5日後、10月の初めのことである。今度はマジャンが報復としてアニュワの村を襲い、100名をこえるアニュワを殺害した。もはや全面戦争の様相である。その直後にアニュワがマジャンの村を襲い2名を殺すと、マジャンは再びアニュワの村を急襲し、20名のアニュワを殺害、さらに翌月には別の村で8名のアニュワを殺した。マジャンはアニュワに対して報復を辞さないという態度をはっきりとさせていた。

 マジャンとアニュワの間には古くから通婚関係がある。嫁いでアニュワの村にくらしている女性も少なくない。しかしこの事件をきっかけに、そうした女性のほとんどはアニュワの村から逃げ、子供を連れて親兄弟のもとに避難した。「村に残ったら、殺されていたよ」2001年の夏、わたしが滞在していた村に子供3人を連れて身をよせてきた女性はいった。アニュワ人である彼女の夫がどこで何をしているか、今はわからない。

 年末になると再び和平会議がひらかれ、ここで「一応の解決」という合意をとりつけた。しかし、多くのマジャンはこれで解決したとはみていない。実際、その後にも散発的に森の中でマジャンが襲われ、殺害される事件が起こっている。いつブッシュの中から武装したアニュワたちがあらわれるか、わからない。そんな状況のなか現在に至っているのだ。

 わたしは20世紀初頭にまでさかのぼって、マジャンの人びとの紛争の歴史を記録する仕事を続けている。その結果わかったのは、マジャンは略奪などの目的で他集団を襲うようなことはめったにしないということ、そのいっぽうで、森林内での防衛のための戦いに非常に長けていること、そして「仲間がやられたらやりかえす」という血讐の考え方を強くもっていることである。

 「マジャンは太陽の光がまったく届かない険しい森の中に暮らしていて、森には道もなくブッシュをこぎながら移動している。象牙の交易をおこなう高地人たちはこの森にすむゾウに魅力を感じているが、なかなか踏み込むことができずに敬遠している。見通しの悪い森で至近距離からゾウに襲われることと、樹上から槍を投げて攻撃してくるマジャンをおそれているからである」

 1920年代にハルツームで発行された植民地政府の情報誌にこんな内容のことが書かれている。アニュワの男から聞き取ったという短い情報だが、マジャンの特徴を簡潔にあらわしている。樹上から槍を投げ下ろしてゾウをとらえるのはマジャンの狩猟スタイルである。ゾウのみならず、侵略者に対する防衛にも同様の戦術を用いていたことをこの記録は示している。

 当時のこの地域は有名な奴隷交易ルート沿いに位置していた。高地の商人はマジャンをみつけると、つかまえて市場に運び売るか、抵抗したり逃げたりすれば即座に射殺したという。そのためマジャンは奴隷商人のいる森の外にはなかなか出てこないが、森に入り込んできた略奪者には容赦がなかった。村にすむある老人は第二次大戦以前、イノシシを獲る落とし罠を応用して高地人の略奪者を捕獲するための罠をつくっていたことをわたしに話してくれた。

 森に入り込んできたら、敵がどんな武器をもっていても地の利はマジャンにある。彼らにとって、森は生活のためのあらゆる資源を供給してくれる恵みの場であると同時に、略奪の恐怖から身を守るための天然の要塞なのである。
 



 
 

■背負い篭ひとつで逃げる女たち

 わたしがマジャンの森に通い始めてまもない頃、こんなことがあった。森の奥深くの小さな集落を訪ね歩いて、当時居候させてもらっていたマジャンの村への帰途につこうとしていたところである。森に入ってから歩いて3日ほどはかかる、メインの道からもはずれたマジャン以外に知る人のない踏み跡道である。

 突如、反対方向から歩いてくる20人あまりの女たちに出会った。背中には子供や、土器や包丁、鶏などの家財道具を入れた篭を背負っている。「町の連中が戦車にのって殺しにきた。これから大きな村はみんな奴らにおそわれてしまうよ」女のひとりが言った。

 彼女らの話から、わたしたちはその日の早朝、高地の町に近いマジャンの村が政府軍の攻撃を受けたことを知った。ちょうどエチオピアの政権が替わってまもない頃、自治州の境界やさまざまな政治的利権をめぐって、この地域で複数の民族間で争いが起こりつつあったときだった。

 わたしがあらためて驚いたのは、移動に際しての彼らの身軽さ、機動力である。生活の場が略奪や攻撃の危険にさらされると、いとも簡単に集落や家屋を捨てて森の奥深くへと姿を消す。彼らの所有する家財は、鶏や犬などの小家畜や、土器、ナイフなど、ごくわずかである。

 移住の時だけでなく、たとえば男なら、狩猟のために何日も森にでかける際にも、山刀か槍を片手にもち、腰に火おこし棒をつけるだけの軽装だ。これで何日でも森の中でくらしていける。食料は森の動植物である。

 このきわめて高い機動性こそが、マジャンが森の生活を選んできたひとつの大きな理由である。彼らは財産をもつことができないのではなく、あえて余計なモノをもたない暮らしを選んでいるようにみえる。

 マジャンの機動性、戦いの巧妙さを示す別のエピソードがある。上に述べた民族間の争いの延長上で近年、高地に近い村にすむマジャンが近隣の定住農耕民シェコとともに大規模な攻撃をうけたことがあった。攻撃をしかけたのは、当時この地域の政治的権力を掌握していた高地のオモ系農耕民シェカチョーだった。この地域の利権を独占することをもくろみ、彼らは州警察を見方につけ、大量の武器をもってマジャンやシェコの村を焼き打ちにしたのである。

 この紛争の結果、シェコは千人近い大規模な死者をだした。シェカチョーたちはシェコの村を攻撃する際、逃げる人びとを家の中に追い込んで火をつけた。追いつめられた人びとは家の中で焼かれ死んだ。

 対照的にマジャンの死者は、圧倒的な軍事力で大規模な攻撃を受けたにもかかわらず、40人たらずにとどまった。町に近いあるマジャンの大きな村はほとんどの家を焼かれ、その後しばらくは無人の廃墟となった。しかし人びとは、高地人の知らない森のルートをたどって無事に逃げた。

 「シェコたちは戦いのやり方をしらない。最悪の対応をしてしまったんだ」あるマジャンの友人はいう。「俺たちは殺されないためにはどう動けばいいのか知っている。そして適切な時に迎え撃ち、反撃するやり方もね」

 この話を聞いたとき、シェコとマジャンの異なる対応とその結果は、定住農耕民となって久しいシェコと、たとえ比較的町に近い大きな村にすむようになっても森の生活スタイルに強い執着をもち続けているマジャンとの違いをあらわしているのではないかと感じた。

 マジャンの森にくらすようになって彼らのスタイルに感銘をうけ、わたしもできる限りそれを見習おうと思うようになった。森に入るときは自分で背負いきれないような余計な道具をもっていかない。寝袋と最小限の調査道具をザックに入れ、軽快に風をきって森のなかを歩き回れるようにする。食糧、寝場所はマジャンの旅のルールにしたがって居候だ。この森にはそんな空気がある。
 



 
 

■銃狩りによって激化した戦い

 このようにマジャンは現在、西のサバンナ側、東の高地側と、森の両側からの脅威にさらされている。歴史的にみて、こうした脅威はたびたび顕在化することはあったが、ここ数年とくに大規模な戦いや惨事が発生している。銃の普及が背景にあるのはもちろんだが、他の原因のひとつに、民族間の力のバランスが崩れたことがあるとわたしはみている。

 1998年、マジャンの生活域の主要部が含まれるガンベラ州の全域で、民間人のもつ銃の没収がおこなわれた。マジャンを含む小さな民族集団は以前から、自衛のため、および狩猟などの生活のために、カラシニコフに代表される自動小銃をもっていた。とくにエチオピアの前政権が崩壊した直後に比較的安価な銃が大量にでまわり、マジャンの村でもふだんから銃をもって村のなかを歩いたり、あるいはハチミツ採集などで狩猟にでかける男たちの姿がふつうにみられるようになっていた。

 そこで、銃の普及が紛争の大規模化をまねいているとして、ガンベラ州政府は銃狩りを実行にうつしたのである。このとき、とくにマジャンの村に対する銃の没収は徹底的におこなわれた。警察官のもつ銃をのぞいて、村からは銃が消えてしまった。

 エチオピアの他の地域で同様の話をきくと、たいていは銃狩りには銃を巧みにかくして対処することが多いようだ。しかしマジャンの場合、10年前の政府軍との紛争の際、銃の戸別所有調査のデータをとられていたために、隠すことが難しかったようだ。当時は没収することはない、参考資料として調査するだけだ、といわれて応じたものだったが、今それによって不利な扱いをうけることになった。

 もし銃狩りが公正かつ徹底的におこなわれたのであれば、それがこの地域の平和につながることは疑いないだろう。しかし、マジャンの銃の大半が奪われたのに対して、他の集団ではそれほど大きな効果はなかったようだ。

 とくにガンベラ州で最も政治的に大きな権力をもつアニュワでは、銃狩りの後も依然として民間の人びとが銃をもっていることは、ここ2年ほどの紛争の内容をみても明らかである。政治的な実権をもつアニュワが、州内における民族間の力関係を有利に保つために謀ったのではないか、そんな疑いさえ抱かせるような結果だった。

 事実、マジャンの銃が奪われてほどなく、アニュワからのあからさまな攻撃が加えられるようになり、さらには東の高地側からも利権をめぐって敵対するシェカチョーが大胆な攻撃を仕掛けてきた。マジャンは銃をもたずに、武装した両側の敵から身を守らざるをえない状況にいるのである。

 日本にすむわたしたちは、近代兵器で武装することが戦争の惨禍をまねくことになると感じている。軍備を放棄することこそ平和の実現につながるという強い感情はそこから来ている。しかし、マジャンのような少数民族をとりまく状況は、なかなか理想通りにいきそうにない。自らの身を外部から守ってくれる強い警察や軍隊もいない。こういう状況のもとでは、周囲の敵から容易に攻めることができないような防御力を自ら保つしかないのである。
 



 
 

■山刀で銃に立ち向かう

 「サトウ、もし銃がないとすれば、どんな武器をつかって戦うのがいいと思う?」シェカチョーによる大規模な攻撃の後、戦いの経緯について村びとに話を聞いていたとき、隣にいたミスラクがわたしに聞いた。

「やはりリーチの長い槍がいいんじゃないかな?」わたしが答えると、ミスラクはそばにいたクシエンと顔を見合わせて苦笑した。命をかけた戦いはおろか殴り合いの喧嘩すらほとんど経験のないわたしは、どうやらまるでずれたことを言っているらしい。

「ゾウやイノシシを獲りに行くんじゃないんだから。人間の敵をたおすには槍よりも山刀のほうがずっといいね。コントロールが利くし、うまく接近できれば一撃で相手を殺すことができる。もちろん、銃をもった相手に正面から戦いを挑んだりしないよ。そんなことをしたら殺されるだけだ。待ち伏せして、うまく背後からたおす。そして銃をうばうんだ」

 山刀(マシェット)は、ふだん彼らが焼畑のためにブッシュを伐採したり、森の道をひらいたりするほか、生業にかかわるあらゆる仕事に使う万能具だ。スナップを利かせて 潅木林を伐り払っていくときの彼らの肉体の動きは力強く、美しい。彼らの強靱な手首は、直径5センチをこえる潅木でもスパッと一振りで切断してしまう。しかし、いつも穏やかな彼らが、その山刀を人間に立ち向かうために使っているところを想像すると、何か強い違和感を感じる。

 銃を失ったマジャンと、警察を見方につけ大量の銃をもったシェカチョーとの戦いは、その年(2002年)の6月なかばにエチオピア正規軍が事態の収拾にやってくるまで、3ヶ月あまりもの間つづいた。シェカチョーによる村の焼き打ちをうけたマジャンは、森に引き上げ、そこから反撃を開始した。

 深夜に町にでていき、パトロール中の警官を背後からおそい、銃を奪って逃げる。 この時、戦いの中心になったこの町には州都アワサから警官がやってきていたが、彼らはほとんどが事実上シェカチョーの援軍だった。このやり方でマジャンは銃を集め、今度は町にすむシェカチョーや彼らのすむ村を報復攻撃する。

 これらのゲリラ戦術による抵抗が罪に問われることになり、300名をこえるマジャンが逮捕され、シェカチョーの政治的本拠地の町マシャの刑務所に容疑者として収監された。村長など村々のリーダーの多くがこれに含まれていた。

 しかし、シェコの人びとに対する大量殺戮が国際ニュースとなるに至り、事態は変わった。国際世論を無視できない立場にあるエチオピア政府は、シェカチョーの暴力にみてみぬふりをすることができなくなり、7月には和平会議を主催してシェカチョーの首謀者たちを虐殺の容疑で調査することになった。そして、ついに8月には事件のおこったイエキ県知事(シェカチョー)が逮捕され、かわってマジャンが新知事に任命されることになった。
 



 
 

■変容しつつも持続する「森の生きかた」

 山刀はマジャンの伝統的な生業具であるかといえば、実はそんなこともない。 今は生業に不可欠な道具である山刀が普及したのはそれほど古い時代ではない。

 1970年代以降の社会主義政権時代、政府はマジャンの人びとを掌握する目的で、定住度の高い村をつくらせる計画をつくった。この時、人びとの目を政府に向けさせるため、衣服と鉄製の農具を無料に近い価格で大量配付した。

 とくにマジャンにとって魅力的だったのが、焼畑の伐採の効率を飛躍的によくする山刀と厚刃の斧であった。20世紀中期頃まで、金属製の農具は高価なものだった。かつて生業に使われていたのは、高地の伝統的な鍛冶師などによって製作された槍先や、それとよく似た形態の斧だった。刃は現在のものよりはるかに薄く短い。数十年前は、今よりはるかに一世帯のつくる焼畑面積は小さく、一人当たりの食糧消費も少なかったと老人たちはいう。おそらくそれは事実だろう。

 集落史の聞き取りをおこなっていると、1920年代頃のこんな話がでてきた。ある氏族の集団が大人数で移住してきて、焼畑に適した場所をなかなかみつけられない。そこで氏族のリーダーは、その土地の主とみなされていた別の氏族のリーダーに相談して、集落まる一つ分にあたる広さの山を斧一丁と交換することになり、合意に達した。金属器が当時どれだけの価値をもっていたかを物語るエピソードである。

 同様に、武器として使用されるものもかつてはゾウ狩りに使ったのと同じ槍や刃の短い斧だった。これらは比較的少量の鉄を延ばしてつくることが可能である。生業も戦いのあり方もかつてはずいぶん異なる相貌をもったものだったのだろうと想像される。

 集落の形態や規模も、かつては今よりも小さく、いっそう移動性の高いものだったことがわかっている。わずか2、3の核家族世帯が焼畑に適した森を伐り開いたものが典型的なマジャンの集落だった。

 彼らの集落の移動性の高さは、先にのべたように、外敵の攻撃からの防御という意味合いが強い。100年ほど前から現在までに森に開拓され、放棄されてきた集落の動態を調べると、実に集落が捨てられる原因の半分以上はそうした戦いや人の死などの事件によるものだった。

 20世紀の半ば頃まで、サバンナ側からはアニュワが、高地側からは奴隷商人などがたびたび略奪のために集落をおそった。アニュワは村を攻撃すると、女性や子供をさらって帰ってゆく。ライフヒストリーの調査をおこなっていると、アニュワに妻を奪われたという経験をもつ老人が珍しくないことがわかる。

 いったん敵による侵略のルートが開拓されると、その場所はたびたび危険にさらされることになる。人びとはこうした場所を直ちに放棄して親族や友人のくらす他村に移住する。放棄された村は廃墟となり、数十年をへて森にかえってゆくのである。

 マジャンという民族集団がいつごろ生まれ、その起源がどこにあるのかは現在のところはっきりしていない。ただ、氏族の系譜関係の証拠から、大昔から単一の集団であったわけではなく、いくつかの集団が合流してできたものであるということが推定されている。そして、その複数の流れのうちの少なくともいくつかは、森ではなくサバンナにすんでいた痕跡が認められる。

 異なる集団どうしの相互交渉には互恵的な交易関係が長期間つづくこともあれば、ほんのささいなきっかけでそうした関係が崩れ、戦いに移行するような局面も繰り返し存在したはずである。マジャンという人びとは、集団どうしの何らかの葛藤をへて戦いの中心に生きることをやめ、平和をもとめて森のささやかな生活を選んだ人びとの集まりなのではないか。わたしはそのように推測している。
 


 (『季刊民族学』109号より)

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