COE研究会・ゼミ
第1サブテーマ「東アジア諸国家とその形成過程の比較研究」


第4回「東アジア諸国家とその形成過程の比較研究」領域横断ゼミ
日時:4月27日 午後1時より
場所:箱崎地区 文学部会議室

発表者
川西裕也 九州大学大学院人文学府修士課程
「高麗公文書研究の現状と課題 ―告身の事例を中心に―」
発表記録


第4回「東アジア諸国家とその形成過程の比較研究」領域横断研究会
日時:4月27日 午後2時30分より
場所:箱崎地区 文学部会議室

報告者
宮本一夫
 九州大学人文科学研究院 教授
「初期国家形成期における青銅彝器」報告記録


第4回「東アジア諸国家とその形成過程の比較研究」領域横断ゼミ発表記録
発表題目:高麗公文書研究の現状と課題 ―告身の事例を中心に―
日時:2005年4月27日
場所:九州大学文学部会議室
報告者名(指導教官):川西裕也(浜田耕策)
司会者名:坂上康俊
出席者数:

 高麗の制度史研究は比較的活発な分野であり、今日まで相当な蓄積がなされている。しかしながら、高麗政府の行政の実態、すなわち、その運営や施行過程が如何になされていたか、という観点からする研究は、未だ深められているとはいえない。今回、告身(辞令書)を対象とし、その発給過程、官僚任用の体系について、検討を加えたい。以下、主として矢木毅(「高麗時代の銓選と告身」『東洋史研究』59-2、2000)、朴宰宇(「高麗時期の告身と官吏任用体系」『韓国古代中世古文書研究』下、ソウル大学校出版部、2000)の研究成果に基づき、現在の研究の到達点、また、今後に残された課題について、述べてゆく。
 現存する告身は、韓国松広寺に残る「慧ェ告身」のわずか一点に過ぎないが、年代記、族譜に記載された告身がいくつか確認される。
 「慧ェ告身」は、唐の制授告身を踏襲した様式をもつ。とはいえ、「慧ェ告身」自体は僧官任命の告身であるため、官僚に対して同形態の告身が発給されていたのか、疑念は残るが、『東文選』などの詩文集に、「門下云々」と、明らかに制授告身の詞命が見え、制授告身の様式を備えた告身が発給されたと想定される。特に、二品以上の宰相に対して用いられたようである。『三国遺事』所載「金傅告身」は、唐の勅授告身の様式を踏襲しているのは間違いないが、差異も大きい。その最大の特徴は、広評省・内奉省・軍部・兵部の連署であり、一体どの官府が如何なる役割を果たしたのか、判然としない。その他の告身として、中書門下制牒、尚書吏部教牒の存在が示唆されている。とはいえ、両者とも、現存はおろか、典籍などに転載されて残っているわけでもなく、その様式は正確に把握し得ない。中書門下制牒は、「昨奉中書門下制牒一道、伏蒙聖慈、除授臣右拾遺知制誥者」(『東人之文四六』)という史料から、その存在が想定される。唐の中書門下勅牒の様式をもつ「張良守及第牒」のように、中書門下の宰相が連署し、発給されていたと考えられる。おそらくは、常参官(五品以上の官)に用いられたようである。尚書吏部教牒については、「昨奉尚書吏部教牒、伏蒙聖慈、差臣権知閤門祇候、依前本職者」(『東人之文四六』)という史料から、その存在をうかがうことができる。唐代においても、中書門下勅牒のヴァリエーションとして尚書六部から牒が発給されたことが確認され、おそらく様式を同じくするものと考えられる。参外官(六品以下の官)に対して、用いられたようである。
 高麗中期以降の文献を眺めていると、「批」「判」といった語句がしばしば目につく。用例から見て、「批」は常参官を略式任命する場合、王の直接命令という形で、「判」は参外官を略式任命する場合、吏兵部の擬定した人事案を裁可する形で下されるようである。これら「批」「判」に基づいて、密直司(もとの枢密院)では「朝謝牒」という文書が発給された。朝謝牒の実例として、「李子脩洪武九年朝謝牒」「李子脩洪武十五年朝謝牒」「柳従恵洪武十六年朝謝牒」「柳従恵洪武二十年朝謝牒」の四件が確認されるが、いずれも族譜に転載されたものであり、時代も高麗最末期に限定される。朝謝牒が正規の告身であるか、または告身とセットで発給されたものか、意見は分かれるところであるが、官僚任用にあたって、必ずこの牒が発給されていたことは間違いない。朝謝牒は、王命(批・判)に基づき、司憲府(もとの御史台)を経て、密直司から発給される。王命出納をつかさどる密直司から発給されるのは理解されるが、なぜ司憲府を経る必要があるのか、注目される。朝謝牒は、朝鮮王朝の成立直後も使用されていたようであり、実物が現存している(「鄭悛永楽元年朝謝牒」「沈彦冲永楽七年朝謝牒」)が、やがてその使用が取りやめられ、消滅を迎えることとなったようである。
 高麗告身研究において、研究の焦点となるのは、朝謝牒の位置づけであろう。そもそも「朝謝」とは何を意味するのかという基礎的な問題から手を付けなければならない。また、制授告身などの正規の告身とセットになって発給されていたのか、それとも高麗中期、武臣政権による政房成立以後、銓選の紊乱にともない、新たな告身として登場したのか、という考究すべき問題もある。これを考える上で重要なのは、朝謝牒が必ず司憲府を経るという点である。年代記にしばしば現れる「署経」は、官吏任用にあたって、当該者の官品の高下を問わず、司憲府官員と郎舎(中書門下の中級官吏)による、承認行為であり、この署経を経なければ、任用は決して認められなかった。朝謝牒と、司憲府の署経との密接な関連がうかがわれる。12世紀に初出するこの署経の起源は定かでないが、『経国大典』に記されているとおり、朝鮮王朝でも署経が行われていた。高麗から朝鮮王朝における、告身と署経の変容を綿密に再検討することが、高麗の告身、官吏任用の体系を研究する上で、非常に重要な意義をもつと考えられる。


第4回「東アジア諸国家とその形成過程の比較研究」領域横断研究会記録
日時:2005年4月27日(水)
場所:文学部4階会議室
報告者名:宮本一夫
司会者:坂上康俊
報告題目:初期国家形成期における青銅彝器
出席者:

@問題の所在
 二里頭文化3期以降に出現する青銅彝器は、王権に関わる威信財である可能性が高い。青銅彝器は「彝」という字義そのものが示すように祭祀に用いられる道具であり、祭儀・儀礼に伴う威信財である。この青銅彝器の編年はこれまでに示されはているが、二里頭期から二里岡期への変遷における技術的な差違を伴う細かな変化については未解明であった。この度、中国社会科学院考古研究所との初期青銅器に関する共同研究をCOEを通じて行い、多くの実物資料を実測調査することができた。その調査結果により、製作技術を中心に新たな知見を得ることができた。

A対象と方法
 土器と共伴する一括遺物に基づいた器形からの型式学的変遷をまず明らかにする。その上で、その段階に沿って実物資料の観察に基づいた鋳造技術の変化を読み解く。さらに二里頭期に続く二里岡文化期初期の青銅彝器との比較によって、鋳造技術の段階的な変化を明らかにする。

B分析結果
 鋳造技術はこれまで二里頭期から二里岡期にかけて双笵から三笵へと変化することが明らかとなっていた。しかし、この変遷における笵の組み合わせに、さらに細かな変化が存在することが明らかになるとともに、そこに段階的な変化があることが示された。

C議論(考察)
 笵の段階的な変化から、これまで二里頭4期と考えられていた青銅彝器が2段階に区分することができた。その新段階には、爵や?といった器種に加え、新たな器種である鼎が生まれると考えられた。また、この新段階がいわゆる二里頭5期すなわち二里岡文化下層期に相当する可能性が高いことを示した。すなわち夏殷王朝交代期に相当している。

D成果(新知見)
 二里頭文化期から二里岡文化期における青銅彝器の変遷を製作技術の変化から詳細に明らかにすることができた。さらにこれまで二里頭文化4期と考えられていた青銅彝器の一部が二里頭5期に下る可能性を明らかにした。

E展望と課題
技術的には連動している変化ではあるが、王朝交代期に相当している。同じ系統の技術集団による青銅器生産が、王朝交代期以降においても続くが、そこでは新たな威信財として鼎などの製作が要求される新王朝の意向も働いている。青銅器という威信財生産における特殊技術集団の王権による管理・掌握について、今後の検討が必要である。さらに王朝交代の具体的なあり方を検討する必要がある。

 


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