木下尚江 略年譜

 『木下尚江全集』第19巻に収めた年譜(各行23字以内に徹しました)にわずかに加筆しました。いつか日録のようなものを作成したいと思います。(2004.3.8 清水靖久)


1869年(明治2年)
9月8日(旧暦)、信濃国松本天白丁(現松本市北深志2丁目4番26号)に生まれる。
父は松本藩足軽の木下秀勝、母はくみ。家族に祖母てふ、1875年生まれの妹伊和子。

1871年(明治4年)
松本藩は松本県、筑摩県となる。1876年長野県。

1876年(明治9年)
父秀勝は巡査となり北信地方で単身勤務。
3月20日、新築の開智学校に入学。

1880年(明治13年)
2月、松本で奨匡社結成。自由民権の演説会を見物。
6月25日、明治天皇の松本通過歓迎を経験。

1881年(明治14年)
秋、松本中学校に入学。

1885年(明治18年)
飯田事件の被告を目撃し感動。
クロムウェルを知り、国王を裁く法律を学ぶ決心。

1886年(朋治19年)
2月13日、長野県中学校松本支校を卒業。
3月、東京の英吉利法律学校(現中央大学)に入学。
4月、東京専門学校(現早稲田大学)法律科に転学。

1887年(明治20年)
10月21日、父秀勝胃癌で永眠。心の空洞を体験。

1888年(明治21年)
7月20日、東京専門学校邦語法律科卒業。
11月ヵ、松本の『信陽日報』記者となる。

1889年(明治22年)
2月11日、大日本帝国憲法発布。

1890年(明治23年)
夏、県庁移転問題で排斥され『信陽日報』廃刊。
秋ヵ、キリスト教の博物書を読み神の存在を信じる。
10月、百瀬興政らと安原徳義会。
10月30日、教育勅語発布。
11月29日、第一回帝国議会開会。

1891年(明治24年)
松本町、高田町、長野町で禁酒運動、廃娼運動。
4月、県治問題3論説を『信濃毎日新聞』に寄稿。
5月ヵ、松本で『信府日報』創刊。
5月23、24日、松本で県庁問題の暴動。
6月8日、「余ハ如何ニして基督教を信ずるニ至りしか」執筆。
10月、長野で「信濃富国論」執筆。

1892年(明治25年)
長野の代言人小木曾庄吉の家に寄寓し法律修行。
2月、「万国之将来」執筆。
12月12日〜15日、代言人試験受験。

1893年(明治26年)
1月28日、代言人試験に合格。
2月、松本の大名町に木下法律事務所を開設。
3月4日、代言人規則廃止、弁護士法公布。
4月、『信府日報』主筆を兼ねる。教育宗教衝突論。
5月1日、弁護士登録。
10月22日、松本美以教会中田久吉牧師から洗礼。

1894年(明治27年)
1月10日、「革新論」で新聞紙条例違犯事件。
3月、石川安次郎『信府日報』主筆として来る。
5月16日、北村透谷自殺。
7月25日、豊島沖海戦で日清戦争開始。
9月25日、『信濃日報』創刊。
11月17日、石川安次郎らと松本公友会の第一回。

1895年(明治28年)
1月ヵ、上諏訪に出張所。芸妓松花、浅野くわを知る。
5月12日、信濃日報千号日清事件終局祝宴大会。
5月19日、遼東半島還付に対して反政府運動開始。

1896年(明治29年)
7月21日、大門沢氾濫で木下家の畑が荒地となる。
9月、石川安次郎『信濃日報』を辞し帰京。
12月、中村太八郎らと平等会、報じられる。

1897年(明治30年)
7月、中村太八郎らと普通選挙期成同盟会を結成。
8月10日、県議選関係の恐喝詐偽取財容疑で入獄。
2日後ヵ、神の愛を信じる蘇生の体験。

1898年(明治31年)
1月24日、重禁錮8か月の判決。控訴。
2月9日、東京へ護送され鍛冶橋監獄署に収容。
12月7日、無罪判決で出獄。降旗元太郎邸へ。
12月22日、『毎日新聞』社長島田三郎を訪問。
12月30日、松本に帰る。

1899年(明治32年)
2月11日、東京着。
2月13日、『毎日新聞』記者となる。
3月中旬、「世界平和に対する日本国民の責任」。
8月下旬〜10月中旬、帰郷。木曾経由で帰京。
10月2日、東京で普通選挙既成同盟会結成。

1900年(明治33年)
1月21日、大宮で安部磯雄らと廃娼演説。
2月15日〜22日、渡良瀬川、足尾へ鉱毒視察。
3月2日、吉原妓楼の少女津田きみを保護。
3月、毎日新聞社で田中正造と初対面。
3月24日、社会主義協会に加入。
6月18日、『足尾鉱毒問題』。
7月27日〜9月上旬、帰郷。母くみと帰京。
10月10日〜15日、関西で廃娼演説。
10月12日、『廃娼之急務』。
11月、12月、東京市公盗問題で星亨を追及。
12月20日、和賀操子と結婚。

1901年(明治34年)
3月2日、社会主義協会演説会で「社会主義の実行」。
4月21日、足利で鉱毒演説会、内村鑑三らと。
5月18日、社会民主党結成、幹事。20日禁止。
6月3日、社会平民党結成、同日禁止。
6月21日、星亨が伊庭想太郎に刺殺される。
8月13日〜19日、兵庫県高砂町で毒水問題視察。
9月9日〜13日、福島県福島町で山林問題視察。
9月28日、横浜で幸徳、片山と普通選挙演説会。
11月29日、婦人による最初の足尾鉱毒演説会。
12月10日、田中正造が鉱毒問題を天皇に直訴。
12月20日、鉱毒演説会で河上肇の着衣寄付に際会。
12月27日、学生大挙鉱毒視察を引率。

1902年(明治35年)
2月5日〜18日、関西で鉱毒救済の遊説。
3月15日、「野生の信徒」。翌日「革命の序幕」。
6月15日、松本の『普通選挙』に「普通選挙論」。
7月16日〜8月11日、前橋で立候補、選挙運動。
8月10日、前橋の衆院選で29票で落選。
8月19日、妹伊和子の夫菅谷徹永眠。子に澄子。
8月末、石川安次郎が木下に後事託して報知新聞へ。
9月24日、社会主義協会学術演説会に警官初臨監。
11月17日〜19日、福島、仙台、盛岡で凶作調査。
11月29日、講演「青年伝道者の起らざる所以」。

1903年(明治36年)
3月1日、衆院選。横浜で島田三郎を応援。
3月末、神田仲猿楽町から麻布区広尾町35へ転居。
4月4日〜7日、社会主義大阪大会へ。
5月11日、「戦争人種」。19日「非軍備論」。
9月23日ヵ、社会主義協会で非戦論の発表を提唱。
10月8日、非戦論演説会。20日も。
10月8日夜、幸徳堺が万朝報退社決定。平民社結成へ。
11月15日、『平民新聞』創刊号に「永世の新倫理」。

1904年(明治37年)
1月1日、「火の柱」毎日新聞連載(〜3月20日)。
2月8日、仁川沖海戦で日露戦争開始。
3月25日、「軍国時代の言論」。罰金刑も控訴せず。
4月12日、『平民新聞』裁判で弁護人として弁論。
5月5日、無教会基督教徒の懇談会。
5月10日、『火の柱』。
7月20日〜30日、信州上州へ社会主義の遊説。
8月15日、「良人の自白」連載(〜11月10日)。
11月11日〜18日、伯父死去で松本へ帰る。
11月16日、社会主義協会の結社禁止。
12月3日、13日、翌月6日、『平民新聞』裁判で弁論。
12月20日、『良人の自白』上篇。

1905年(明治38年)
2月5日、『直言』が『平民新聞』後継。主筆同然。
2月12日、「「新人」の国家宗教」で吉野作造を批判。
2月28日、幸徳秋水、西川光二郎の入獄を送る。
4月1日、続篇「良人の自白」連載(〜6月3日)。
5月7日、東京衆院補選に立候補。妨害で運動できず。
5月16日、東京市の衆院補選で32票で落選。
7月1日、「良人の自白」後篇連載(〜10月16日)。
7月2日、『良人の自白』中篇。
7月28日、幸徳の出獄を迎える。平民社改革問題。
8月1日〜14日、山田金市郎と東北遊説。
9月5日、日露講和条約反対の焼打事件に際会。
9月26日、平民社解散決定。石川三四郎と雑誌計画。
10月9日、平民社の解散式。
10月12日、焼打事件関連で家宅捜索を受ける。
11月10日、雑誌『新紀元』創刊。全13号。
11月12日、『良人の自白』下篇。
11月13日、翌日渡米の幸徳と大久保の櫟林で会談。
11月17日〜22日、甲州伝道。
12月3日、新紀元説教開始。夜、社会主義茶話会。

1906年(明治39年)
1月1日、「新曙光」連載(〜6月9日)。
3月11日、電車賃値上反対市民大会。18日は禁止。
3月16日、前日の騒擾事件関連で家宅捜索を受ける。
4月22日、田中正造来演。28日、谷中村を見張る。
5月6日、母くみ永眠。8日葬儀。
6月23日、幸徳帰国。25日ヵ、日本社会党に入党。
7月6、7日、田中拘引で栃木町谷中村を石川と訪問。
7月9日、北海道遊説中止を石川三四郎に告げる。
7月10日、「告白をもて序に代ふ」執筆。
7月19日、田中正造に300円寄付。
7月20日、『良人の自白』続篇。
7月27日、松本へ。8月上旬ヵ帰京。
7月31日、『東京毎日新聞』退社。
9月10日、「懺悔の苦痛」。「革命の無縁国」。
9月10日、小中村の田中正造の生家を石川と訪問。
9月11日、幸徳、堺と会談、社会主義運動から分離。
10月5日〜7日、伊香保旅行。
10月9日、『新紀元』廃刊決定会議。
10月10日、「旧友諸君に告ぐ」。
10月19日、松本滞在。
10月31日、伊香保の木暮金太夫方に転居。
12月30日、『懺悔』。

1907年(明治40年)
1月15日、日刊『平民新聞』創刊号に「山居雑感」。
3月14日、大久保で幸徳と一日語り暮す。
3月31日、古河で田中と同宿。
4月3日、『飢渇』。
4月15日〜18日、東京で綱島梁川、徳冨蘆花面会。
5月29日、『霊か肉か』上篇。
6月22日、谷中村の破壊の前夜の会合で演説。
6月27日〜7月8日ヵ、谷中村強制破壊に立会う。
10月17日〜27日、名古屋、岐阜、京都、奈良旅行。
12月上旬、東京の日暮里村元金杉に住居。

1908年(明治41年)
1月4日、『霊か肉か』下篇。
2月1日〜4月5日、雑誌『新生活』。全5号。
5月8日、三河島村町屋へ転居。
5月28日ヵ、賀川豊彦が木下を訪問。
6月22日、赤旗事件に際会。
7月10日、『乞食』。
9月7日、「墓場」東京毎日新聞連載。5回で休載。
12月13日、『墓場』。

1909年(明治42年)
6月5日、『労働』。
7月14日、石川安次郎宅で幸徳と晩餐。
10月15日、『荒野』。
11月、純枝を子に迎える。
11月14日〜19日、甲州伝道。

1910年(明治43年)
5月29日、岡田虎二郎を訪ねる。静坐を始める。
6月1日、幸徳秋水が逮捕される。
6月14日、『火宅』。
8月11日、豪雨で濁水氾濫。
8月24日、田中に岡田訪問を勧める。翌日訪問。
9月3日、『火の柱』『良人の自白』など発売禁止。
11月3日、『日蓮論』。
12月28日、逸見家で田中、岡田と昼餐。

1911年(明治44年)
1月24、25日、幸徳ら12名死刑執行。
2月10日、『法然と親鸞』。
4月11日〜30日、逸見らと信越京都古跡巡拝。
7、10、12月、『野人語』第一、第二、第三。
10月30日〜11月4日、前橋の深沢を訪問。
11月1日、「余が思想の一大転化と静坐の実験」。

1912年(明治45年)
1月3日、信州へ旅行。
2月1日、『創造』。堺「木下尚江君の態度を評す」。
3月5日、1日獄死の赤羽一の通夜に出席。

1913年(大正2年)
8月11日〜9月8日、田中正造看病で佐野滞在。
9月4日、田中正造永眠。
12月2日、子の正造が生まれる。

1914年(大正3年)
8月23日、世界大戦で日本政府がドイツに宣戦布告。

1916年(大正5年)
8月上旬、滝野川町西ケ原に新築した家に転居。
この年だけ書簡が一通も残っていない。

1917年(大正6年)
3月、11月、ロシア2月革命、10月革命。

1918年(大正7年)
8月、シベリア出兵、米騒動。

1919年(大正8年)
正月、田中正造の写生を思い立つ。

1920年(大正9年)
10月17日、岡田虎二郎が14日発病し急死。

1921年(大正10年)
8月10日、『田中正造翁』。
8月中旬ヵ、操子正造と盛岡旅行。
11月30日、『岡田虎二郎先生写真帖』。

1923年(大正12年)
3月28、29日、家族で伊香保、前橋旅行。
9月1日、関東大震災。
11月14日、島田三郎永眠。

1924年(大正13年)
6月16日、島田三郎全集刊行記念講演会で演説。
11月14日、『島田三郎全集』第3巻。

1925年(大正14年)
3月、普通選挙法、治安維持法制定。
4月18日、『島田三郎全集』第4巻。
11月1日、田中正造伝記資料の整理に着手。
11月14日、『島田三郎全集』第5巻。

1926年(大正15年)
1月20日、純枝が伊藤正治と結婚。
2月26日、逸見家で堺利彦、福田英子らと小集。
9月16日〜18日、田沼、佐野、足利行。
10月2日、足利で田中について講演。24日展覧会。

1927年(昭和2年)
8月23日、「田中正造之生涯」の編集を終える。

1928年(昭和3年)
2月20日、成年男子普通選挙による最初の衆院選。
5月、旧著復刊を石川三四郎に承諾。
7月31日、『木下尚江著作集』第2巻。
8月20日、『田中正造之生涯』。

1929年(昭和4年)
3月10日、『木下尚江集』第2巻(〜8月、全4巻)。
4月11日、谷中村の田中霊祠を操子と訪問。
9月8日、木下家で還暦祝賀会。
10月、逸見家の水曜静坐会を解散、再出発。
11月9日、島田三郎記念講演会で「衷心の悩み」。
11月13日、妹伊和子永眠。

1930年(昭和5年)
5月15日〜6月2日、奥州旅行。盛岡で操子病臥。
10月19日、逸見夫妻、石川と田中霊祠、田沼訪問。

1931年(昭和6年)
2月一杯、風邪で病臥。
9月18日、満州事変。
11月5日、孫の伊藤洋一郎生まれる。

1932年(昭和7年)
5月15日、犬養首相ら暗殺の5・15事件。

1933年(昭和8年)
1月24日、前日永眠の堺利彦の通夜に出席。
1月27日、河上肇の護送中の写真を新聞で見る。
2月9、10日、「神の解放」。
3月18日、吉野作造永眠。
4月1日、「政治の破産者・田中正造」。
4月15日〜20日、「幸徳秋水と僕」。
5月1日、「自由主義者・島田三郎」。
9月1日、「臨終の田中正造」。
9月20日、信州旅行から帰る。
12月1日、「片山潜君と僕」。
12月10日、明治文学談話会に出席。以後21回。

1934年(昭和9年)
9月3日、『神 人間 自由』。
10月10日、7日永眠の深沢利重の葬儀で弔辞。

1935年(昭和10年)
2月、天皇機関説攻撃の国体明徴運動始まる。
10月31日、孫の伊藤富士子生まれる。

1936年(昭和11年)
正月、操子重病。
2月26日、高橋蔵相ら暗殺の2・26事件。戒厳令。
3月8日、田中勝子本葬に逸見、石川と参会。
春〜、矢吹慶輝を囲む相馬家例月仏教座談会に出席。
4月末、操子が盛岡旅行、白石で発病し引返す。
5月14日、上総興津で静養の操子を見舞う。
8月1日、操子永眠。
8月下旬、『書簡に代へて(妻みさ子の永眠を語る)』。
10月17日、田原で岡田虎二郎墓参、逸見夫妻と。

1937年(昭和12年)
1月26日、病臥。2月一杯。
3月21日、正造の就職祝い、相馬愛蔵、逸見夫妻と。
3月29日、「島田三郎伝」執筆開始。
7月7日、盧溝橋事件、日中戦争。
9月13日、発病。
9月24日、相馬夫妻に書簡、宗教改革問題に言及。
10月1日、「病中吟」口授開始。
10月10日、岡田虎二郎に対する私見を逸見に語る。
10月29日、胃癌と聞き、辞世の一首を仰臥自筆。
11月5日、永眠。