Belem 2000, O Futuro Ja Comecou.

                      

                        古谷嘉章

 

 ベレンは、アマゾン河口のグアジャラ湾に面した、ブラジル・アマゾン最大の都市である。ポルトガル人のアマゾン進出の拠点として1616年に築かれた要塞に始まり、「ブラジルのリヴァプール」と異名をとるほどの活況に沸いた19世紀後半の天然ゴムブームを経て、今日まで「アマゾンの首都」でありつづけてきた。

 私にとっては、15年程前に約1年間、初めてのフィールドワークをした思い出の土地である。幾度も立ち寄りはしたが、長く住むのはそのとき以来のことだ。ベレンは昔のままだったし、見違えるほど変わってもいた。それは、再会した旧知の人が同一人物でありながら、同じままではないのと似ている。以前からの知り合いたちは確実に年を重ねていた。彼らの目に映る私の姿にしても同じことだっただろう。亡くなった人も少なくない。今回の滞在中にも、以前から大変お世話になった人の葬儀に参列する巡り合わせになった。自分の日常生活とは遠く離れた世界に住む人々と長年にわたって付き合い続けること。そこには、調査などという無味乾燥な言葉ではとらえきれない何かがある。

 私が以前に調査していたのは、アマゾンのアフリカ系の憑依宗教というもので、ベレンだけでも1000を越えるグループを州連盟が統括している。昨年の初めにベレンに着いてすぐに、町外れにあるその本部(といっても小さな二階建ての家だが)を再訪してみると、前の道路が舗装工事の真っ最中だった。かつては、雨期ともなると泥沼になってしまって、通るのに難渋した道だ。しかし驚くのはまだ早かった。その道と交差する大通りに、なにやら巨大なコンクリート建造物が建設中だったのである。現場で働いていた工事の人に尋ねてみると、「カルナヴァルの行進」用の施設を突貫工事で仕上げている最中だと言う。舗装工事もそのためだった。しかしカルナヴァルまでは、もうほとんど日数は残されていない。それなのに、やっと骨組みができつつあるという有様だった。

 ところが、いかなる呪術を使ったのか、とにもかくにも当日には、「デスフィーレ」(カルナヴァルの行進)はそこで催されたのである。コンクリートが充分に固まっていないので観客席が落ちるのではないかという噂もあったが、なんとか持ちこたえた。「ジェイチーニョ・ブラジレイロ」(ブラジル式の最後の手段)は、すべての不可能なことを可能にし、多くの可能なことを不可能にする。前年までは、もっと町の中心に近い大通りを期間中だけ通行止めにして「デスフィーレ」を催していたのだった。カルナヴァル用の常設会場というのは、リオの「サンボードロモ」を嚆矢とする。その後ブラジル各地に広まり、それとともに、それぞれに地域色のあったカルナヴァルは、絢爛豪華なリオ風のものに塗り替えられてきた。地元のカルナヴァルを見に行くより、自宅でリオのカルナヴァルの実況中継を見る人が少なくない状況では、リオのコピーになっていくのは、押しとどめがたい趨勢というものだろう。

 しかし、ベレンの「デスフィーレ」会場には、少なくとも名称の上では、アマゾンの地域性が刻印されていた。「カバーノたちの村」(Aldeia Cabana)がそれである。「カバーノ」とは、19世紀なかばのアマゾン地方で、独立後まもない新生ブラジル帝国に反旗を翻した民衆反乱の担い手たちのことだ。カルナヴァル期間以外は民衆文化振興のために使われる予定の建造物の名称として、その名がふさわしいと、ベレン市長(労働者党)は考えたというわけである。労働者党市政は、市内のあちこちで建設工事や改修工事を進めていた。その現場には必ず大きな看板が立てられていて、そこにはプロジェクト名とともに工期と予算が明示されていた(これは画期的なことだ)。しかし、それ以上に目を引くのが「ベレン2000年、未来はもう始まっている」というスローガンと、ハンマーを振り上げた労働者の図柄、アンジェイ・ワイダ監督の『大理石の男』を思わせるような図柄だった。この市長は「再選は難しい」と噂されていたが、10月の選挙では、第1回投票では他候補の肉迫を許したものの、決選投票で再選を果たした。この再選には若者たちの票の貢献が大きかったと分析されている。アマゾンそしてブラジルを長く支配してきた旧態依然の談合ボス政治に変わる何かが求められているのだ。

 15年前にベレンに住み始めた頃、町を案内してもらっていたとき、貧しい人々が住む地区のあちこちで、ブリキや板製の赤い小旗が目を引いた。これはアマゾンの人々の大好物の「アサイ椰子の実をすりつぶした液」を販売していますという標なのだが、案内してくれた人に「この地区はコミュニストが多いのか?」と冗談混じりに尋ねたことを思い出す。しかし当時はまだ軍事政権時代だった。それが今回の市長選の選挙運動では、広場や街頭で労働者党の赤旗を人々が屈託なく振っている。時代は確実に変わりつつある。

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 「逆転」の儀礼としてのカルナヴァルが、他の二種類の儀礼とともに、ブラジルの儀礼三角形をなしていると言ったのは、ブラジルの人類学者ダ・マッタである。『カルナヴァル、ならず者、英雄』のなかで彼が提出しているブラジルの儀礼三角形とは、「独立記念日」「カルナヴァル」「カトリック聖人の祭礼」で、そのそれぞれが、日常的な社会構造に対して「強化」「逆転」「中和」の関係にある儀礼だと彼は解釈する。そしてその儀礼が、ブラジル人が自らに対して自己像を提示する機会となっているのだ。彼の図式はいかにも構造主義者っぽく整理されすぎているきらいがないこともない。しかし言い得て妙といった感じもする。もう少し詳しく言うと、独立記念日の儀礼、なかでも軍事パレードでは、日常の世界を支配する国家権力と軍事力が露骨に表現され、そこではお偉方が並ぶ雛壇の前の目抜き通りを軍隊が整然と行進し、一般人はそこからロープで遮断され、国家権力のスペクタクルの傍観者の身分に甘んじる。その意味で、日常的な位階構造がこれみよがしに「強化」される機会となっているのだ。それに対してカルナヴァルでは事情がまったく違う。そこでは日常の序列は一時的に停止し、それどころか日常生活では低く貶められているものこそが価値あるものとして逆に賞揚される。つまり、それは「さかさまの儀礼」なのである。しかしカルナヴァルが行政や企業の手によって観光化されたショウとして組織され、特設会場に囲い込まれるとき、その「逆転性」は妥協されたものにならざるをえない。

 ダ・マッタのいう儀礼三角形のさいごのひとつが「カトリック聖人の祭礼」である。彼によれば、これは「中和」の儀礼だ。つまり日常的な序列や差異が「強調」されるのでも「逆転」されるのでもなく、すべての人が対立を忘れ、その聖人の帰依者として平等になるのだ。この種の儀礼は、教区や村落を単位とするものからはじまって規模が様々だが、そのなかでベレンで毎年10月の第二日曜日から2週間つづく「ナザレの聖母の祝祭」は、アマゾン地方最大のカトリックの祝祭である。すべては、1700年に当時はまだ密林だった(今では市街地で大聖堂が聳えている)場所で、ひとりの猟師が小さなナザレの聖母子像を発見し、それが数々の奇蹟をひきおこしたことに始まる。その後1793年に、聖母像をカテドラルから大聖堂へと運ぶ大行列(シリオ)が組織されるようになり、2000年は208回目にあたった。

 行列は近年拡張されて、金曜の午後、聖母像は居所である学校を出てオープンカーで隣接する郡まで行き、土曜の早朝さらに川縁の町に運ばれ、そこから満艦飾の数十の船に囲まれた軍艦に乗せられてベレンの船着き場に至り、そこで歓迎を受けたのちオートバイの群に先導されて学校へと戻る。夕方には、御輿車に乗せられて大群衆が付き従ってカテドラルへと4.5kmの道程を移動する。この「トラスラダソン」は、今年は7時間かかった。そして翌日曜の早朝。カテドラル前でのミサの後、文字どおり人波が埋め尽くす炎天下の目抜き通りを、行列はアマゾンの流れさながらに大聖堂へと向かう。聖母像を一目見ようとする沿道の群衆。窓という窓に鈴なりになった人々。聖母像を載せた御輿車に繋がれた太綱にしがみついて、汗みどろで牽いてゆく裸足の人々。願掛けの成就を感謝して家や船の模型や水の入った壺を頭に乗せて歩む人々。その人出は、ベレンの総人口に匹敵する。今回のシリオは、史上最長で、なんと10時間に及んだ。小さな聖母像がこれだけの人々を動かす。それだけで充分に奇蹟と言える。

 この祭について何を言うべきだろうか。そこに唯一の意味を見出そうとするのは筋違いだ。さまざまな思惑の下に、幾重にも意味が塗り込められている。ここでダ・マッタの分析枠組を持ち出せば、「ナザレの聖母の大聖行列では、すべての人が日常生活における序列を一時的に捨てて、ナザレの聖母に帰依する篤信の徒として横並びになるのだ」と言えるだろうが、そんな分析は、この圧倒的な光景の前では小賢しく響く。1984年のシリオにベレンを訪れて「こんなにも宗教的な民衆に共産主義を説くのは馬鹿げている」と言った大統領候補は、当選しながら病に倒れて就任できなかった。彼が今も生きていたら、労働者党の市長が再選されたベレンを見て何と言うだろうか。市長に投票した同じ市民たちが、聖母に付き従う篤信の人々なのである。

 いたずら坊主のようなキリストを胸に抱いた聖母の顔立ちは、どことなくアマゾンの女を想わせる。灼熱の日射しの下、人波にもまれて半ば朦朧としていた私には、疲れて眠りそうになる幼子に彼女が、「1年に1度のお出かけなんだから、よく見ておくのよ」と囁いているように見えてしかたなかった。その様子は、沿道で子供を抱く母親たちに良く似ていたが、それも道理かもしれない。何といっても、ベレンはベツレヘムなのだから。