博物学のアマゾン           1990年、『Museum Kyushu34号所収)

1848年5月28日、一人の若いイギリス人 がアマゾン「河口」の町パラ市(現在のパラ州ベレン)の船着場に上陸した。当時ブラジルは独立してまだ20年余の帝政時代であり、黒人奴隷制の廃止と共和 制の発足までには、まだ数十年を残していた。彼ヘンリー・ウォルター・ベイツには、彼より2才年上の連れがいた。のちにマレー諸島の動物の地理的分布境界 線「ウォレス線」に名を残すことになる、アルフレッド・ラッセル・ウォレスである。この二人の若き博物学徒が大西洋を渡ってアマゾンの熱帯雨林の科学的探 険に赴いたのは、当てのない突飛な思いつきではなかったし、類例のない奇矯な行動でもなかった。彼らの企ては、その前年に出たアメリカ人エドワーズの『ア マゾン河遡行記、あわせてパラの滞在』の記述に魅了されてのものだったし、3年前にはチャールズ・ダーウィンの『ビーグル号航海記』も出版されていた。そ もそも19世紀の40年代は、アマゾンの博物学的探険時代のピークをなしていて、何人もの博物学者たちが、いまだ発見されていない自然物を求めて南アメリ カの奥地に分け入っていたのである。
   
博物学は探険旅行とセットをなしてい た。18世紀から19世紀にかけて、帝国主義の台頭とともに世界の隅々へと「科学的知」の対象を広げていったこの学問は、自然の多様性あるいは多様な自然 物についての具体的な知識を蓄積することを土台とするもので、そのために、まだ知られていない自然物を世界中から文字どおり収集してきて分類することを目 指していたのである。しかし、ただ分類箱に標本を並べて事足れりとしていたわけではない。とくに19世紀のなかば以降、多種多様な自然物は歴史的に形成さ れてきたものだとの認識から、「自然史」の解明に重点がおかれはじめていた。必要とされていたのはモノを配列する理論であり、その理論を裏付けるあの鳥こ の草というモノだった。そしてベイツもウォレスも、そうした時代の空気を吸い、またその空気に「酸素」を供給する役回りを担うことにもなったのである。こ うしたコンテクストの中で、二人はリヴァプールを発って約1ヶ月の船旅の後、5月28日の早朝に、彼らに発見され名付けられるのを待っているはずのアマゾ ンの大自然との出会いの期待に胸を膨らませてベレンに姿を現わしたのである。

ベ イツはその後結局11年もの歳月をアマゾンで過ごすことになる。その間の探険の様子は、1859年に帰国した後ダーウィンの熱心な勧めによって執筆され、 1863年にロンドンで出版された『アマゾン河の博物学者』に詳しい。なぜダーウィンがかくも熱心な関心をベイツの仕事に抱いたのか? それは、彼の理論 を裏付ける数々の事実がベイツの探険によってもたらされたからである。ちなみにダーウィンの『種の起源』が世に出るのは、ベイツが帰国した年の暮れであっ た。つまり、ベイツの探険は、『ビーグル号航海記』と『種の起源』の間にちょうどおさまっている。

上 陸した日の夕方、到着の興奮さめやらぬうちに彼らは早速、ベレン(パラ市)の郊外の探査に出掛ける。そこで彼は「自然の豊かさと、人間の貧しさとの混淆 が、著しく目立っていた」と記し、サウバ蟻やアサイヤシなどのことを博物誌におなじみのラテン語の学名とヴィクトリア朝的な緻密な挿画をまじえつつ描写す る。ちなみにこのアサイヤシの実をすりつぶした汁は、色はお汁粉そっくりだが味は渋く、マニオク粉のファリーニャや干し海老といっしょに食べる。アサイ は、今でもベレンの庶民が好む食物で、「パラに来て止まり、アサイを飲むと留まる」という言い回しさえある。町のあちこちで自家製のものが売られていて、 道端の赤い小旗が「アサイあります」の標である。私は1984年から1985年の1年間と1987年の暮れの1ヶ月ほどベレンに滞在して人類学の調査をし たのだが、初めてベレンの町外れのスラムで林立する赤旗を見たとき、何を意味しているのかわからずに、案内してくれたエミリオ・ゲルヂ博物館のナポレオン 先生に冗談まじりで「この地区はコミュニストが多いのか」と尋ねたのだった。

は からずも個人的体験に話が及んでしまったが、そうした「望郷の念」も手伝って、19世紀なかばのベレンの事情を伝えるベイツの筆は、私にとって特別の感慨 を引き起こす。しかもとりわけ私にとって興味深いのは、私の調査と直接に関係する宗教的な祝祭など当時の人々の生活の描写なのだが、ここでひとつの意味深 い事実に気づく。それは、人々についての描写が、彼の博物誌のなかでは、動植物や地理的景観などとともに自然の描写に組み込まれて現れることである。そう したスタイルは、アマゾン河の本流や支流の探検について述べる際には、より一層鮮明になる。このことは何を物語るのだろうか? 重要な点は、それが彼の個 人的なスタイルなどではなく、人間をも自然の景観の一部としてとらえる姿勢が、博物誌というものの標準的なスタイルだということである。アメリカ自然史博 物館のジオラマに明瞭に現れるスタイルと言ってもよい。そうは言っても、ベイツの先住民インディオについての記述が偏見や蔑視にみちているということでは ない。むしろ「文明」の周縁で品性を堕落させた人々と比較して共感をもって描きだしてさえいる。唐突だが、ここで1878年の探険旅行の報告であるイザベ ラ・バードの『日本奥地紀行』のなかで、彼女がどれほどの共感をもって蝦夷地のアイヌについて弁じているかを思い起こすことも無駄ではない。しかし、その 描写がどれほど共感に満ちたものであったにせよ、人々の生活を自然の景観というコンテクストのなかに置くという観点は、「自然史」の一部として人間の歴史 をとらえるという立場につながる。しかしそうでなくては、『種の起源』とひとつづきのものとしての1871年の『人類の由来』は書かれえなかったであろ う。

1859 年にベイツは、幾多の探険旅行の思い出と、(すでに送付済みのものも含めて)大量の標本を携えて故国に戻り、再びアマゾンの地を踏むことはなかった。その 3年後の1861年の10月、パラ県の議会に自然史博物館開設のための予算を翌年の予算に計上する提案がなされた。しかし法案は通過したものの計画は遅々 として進まず、立ち消えになりそうな気配だった。そこに強力な推進者が現れる。政治家にしてジャーナリストにして博物学者である当地の名士ドミンゴス・ソ アレス・フェヘイラ・ペーナがその人である。彼は自然史博物館が、アマゾンの自然、アマゾンの先住民であるインディオ諸部族の研究機関となるのみならず、 高等教育機関のなかった当地方でアカデミーとしての機能をはたすことを夢見ていた。アマゾンを対象とする科学に捧げられた初の研究施設。彼と同志たちは、 1866年、博物館設置のための準備室にして初代の首脳部ともいうべき科学愛好会を組織する。しかし理想は高邁だったが、財政難や県政府の無関心なども あって、またもや葬り去られようとしていた。ところがそれは臨終の床から蘇生した。いや流産をまぬがれたと言ったほうがよいだろう。赤子を救った産婆は、 ほかならぬ1889年の共和革命である。

共 和主義者たちは、帝政のすべての遺制を根こそぎにし、あらゆる面での近代化を目指した。いまこそ博物館は、学術面での改革の中心となるべきものとされ、 1891年5月13日に「再設立」されるに至った。奴隷制廃止からちょうと3年後のことである。強力で有能な指導者の下ですべてに新時代にふさわしい形を 与えること、そこで、長くリオデジャネイロの国立博物館に籍を置いていた高名なスイス人博物学者であるエミリオ・ゲルヂが招聘される。彼のベレン到着は、 当時まだ各地で頻発していた帝政復興派による反乱などのせいもあって遅れたが、1894年の7月には着任し、博物館の機構の整備を精力的に推し進め、優秀 な研究者を集めて研究体制を整え、翌年には市中にある裕福な企業家の屋敷を入手し、博物館を開設した。それ以来この同じ敷地に博物館(1900年にエミリ オ・ゲルヂ博物館、1931年にパラ州エミリオ・ゲルヂ博物館と名を変える)があるが、ここはベイツがベレンを初めて訪れたときには、市内でさえなく密林 の中であった。しかし彼が帰国の途についた1859年には、もうすでにそうではなく、彼はつぎのように書いている。「私が最初にパラの地に上陸した時、そ こに見た雑草の生い茂った、荒れ果てた農村らしい場所はもはやそこにはなかった。人口は ………2万人にまでふくれ上がっていた。 ………荒れ果てた家の 多くは、路面から数フィート上がった1階の表側に、長い優雅なバルコニーを持った、立派な新しい大邸宅に置き換えられていた。 ………生活費は約4倍には ね上がっていた。 ………雄大な森の木ぎは切り倒され、その裸の半ば焼けこげた幹が、灰やぬかるみの水と、折れた枝を積み上げた中に残っていた」。

ベ イツがアマゾン奥地の博物学探険に明け暮れていた、19世紀なかばの7年半にベレンに生じはじめていた変化。それには様々な原因があるが、一言に要約すれ ば、それが天然ゴムによるものであることは疑いえない。天然ゴムの輸出は、1827年にさかのぼる。それ以降、19世紀を通じて20世紀の初頭まで、輸出 量は増加の一途をたどり、1912年のピークを境に、東南アジアの英領植民地のゴムプランテーションに敗北するまで、アマゾンはその繁栄を謳歌したのであ る。これがアマゾンのゴム・ブーム(Ciclo de borracha)であり、ベレンは「ゴムの都」とよばれた。人口が流入し、領事館が増え、新しい墓地が建設され、市の中心部の道路は舗装され、ガス灯が 並び、70年代には、公立図書館がつくられ、1878年に竣工した「平和劇場」では、その年だけで126回もの公演がなされた。そのほかにも病院、銀行、 市電と書けば限りがないが、当時の市民はベレンを「ブラジルのリヴァプール」と呼んでいたと言えば、天然ゴムがベレンにとって、そしてアマゾンにとって何 であったか見当はつくだろう。もちろんベレンの住民が等しくゴムの恩恵を享受したわけではないし、アマゾンの密林の奥に、ゴム景気に直接的に貢献しなが ら、その恩恵は最低限しか受けなかったセリンゲイロ(ゴム採取人)が無数にいたことは事実である。

こ うした経済状況を母胎とし、共和制の理想を父として、ベレンの博物館は再び生まれたのであった。館長として運営を任されたエミリオ・ゲルヂ博士の下で策定 されたプランに従って、まず動物学・植物学・民族学/考古学・地質学/鉱物学の研究部門と図書館が設けられた。そして現在の位置に移転した1895年に は、動植物園が開設され市民に公開された。そしてそれは今もある。1975年にブラジルを訪問したフランス人ラプージュは、その「反=旅行記」である『赤 道地帯』のなかで、つぎのように書いた。「アマゾニアはたいへん大きく、大きすぎて眼に見えないくらいなので、人々はそのひとかけらを切りとり、ベレンの 街のまんなかにもってきて、檻に閉じこめてしまうことを考えついた」。そしてこうも書く。「この動植物園の創設者たちが、一万キロにわたる森林など存在 しない。それを人がきわめて大きな庭園の規模にまで縮小しないかぎり存在しえないという理念をいただいていたことを、この観光名所についてぼくは指摘し ておきたいと思う」。さらに言う。「理論的にいって、このミニチュア版のアマゾニアは、どこかにベレンの街そのもののミニチュアを入れておくべきだったと 思う。そしてそのミニチュア・ベレンには、 ………さらに顕微鏡的に縮小されたベレン動植物園がふくまれ ………

私 は、ラプージュが言っているのは、ロドリゲス・アルヴェス森林公園のことなのかもしれないと思うのだが、たとえそうだとしても、記述じたいは、エミリオ・ ゲルヂ博物館付属動植物園にもあてはまるだろう。ベイツは、アマゾンの支流に分け入って艱難辛苦の末に標本にした昆虫や鳥や哺乳類や、押し花にした珍しい 植物を、できれば生きたままイギリスに持ち帰りたかったにちがいない。そして何もかもがほどよく調和のとれたアマゾンの自然を「創造」したかったのだと思 う。博物学とはそういうものだからだ。それにできれば、ちょっとした住民たちも。そしてエミリオ・ゲルヂとその後継者たちの試みも、それと大きく違うもの ではなかったはずだ。博物学は、どんなかたちせよ自然を人間の手の内におさめることに他ならないからである。しかし、ここで彼のプランに沿った博物館がい くつもの研究部門に分けられていたことも忘れてはならない。いまや諸科学は独立したディシプリンとなりつつあったのである。ところで、先に引いたラプー ジュの最後の文章は、エミリオ・ゲルヂ博物館のその後を考えると意味深い。まるで母なるアマゾンと臍の緒で繋がっているかのように、その運命を反映してき たからである。1907年にゲルヂが故国に帰ったのち、1910年代から20年代にかけて、博物館は休眠状態に陥る。これは後継者の手腕の不足というよ り、アマゾンとブラジルの経済状態の推移を正確に反映している。先にも述べたゴム景気の急落と第一次大戦下の経済の悪化である。そして博物館が再び息をふ きかえすのは、1930年のジェットゥリオ・ヴァルガスによる革命下であり、1945年の彼の下野とともに、停滞期にはいる。それが復活するのは、 1954年に州の管轄を離れて、国立アマゾン研究所(INPA)の下部機関となったことによる。そしてその下で、市中の狭い敷地での維持が困難であるとの 理由から動物園は縮小されることになった。

私 がベレンにいたとき、どういうわけか正式の手続きを経ずに「客員研究員」のパスをもらっていて、調査の合間に、しばしばエミリオ・ゲルヂの研究者を訪問し ていた。そんなある日、いつものようにナポレオン先生を研究室に訪ねると、彼は真顔で「ジャガーに会わなかったか」と言う。冗談かと思ったら本当で、ジャ ガーが檻を抜け出して、探しているのに見つからないのだ。少し高めの塀はあるけれど、まわりは住宅や商店があり前の道は車で混雑した街の真ん中である。話 がすんで研究室のバラックを出ると、おりしも捕物の最中で、水族館の床下に潜りこんでいたジャガーを突き出そうとしているところだった。結局は御用になっ たのだが、それを見ていてふと、アマゾンのインディオの神話の多くで地下にあるジャガーの世界のことを思い出した。これは一種のパラレルワールドなのだ が、私には、ジャガーが、都会のなかに孤島のように切り取られたアマゾンから神話的故郷へと帰ろうとしているように思えたのである。

ベイツはあれだけアマゾンを探険しながら、ジャガーの足跡こそ幾度も見たが、姿を見ることはきわめて稀だった。そしてそれが博物館付属動物園の檻のなかに囲われてしまったとき、ベイツのアマゾン、博物学のアマゾンは終わりはじめていたのかもしれない。

〈参考文献〉
ヘンリー・W・ベイツ (1990) 『アマゾンの博物学者』、思索社
ジル・ラプージュ (1988) 『赤道地帯』、弘文堂
Antonio Rocha Penteado 1986 Belem do Para, Universidade Federal do Para.
Anonymous (1986)  O Museu Paraense Imilio Goeldi, Banco Safra