オースティン、テハス
 

 シモーネ、君やほかのブラジル人たちと英語とポルトガル語を気分や話題に応じてスイッチしながらしゃべっていたのが、ついこのあいだのことなのに、もう何年も昔のことのように思えてしまう。ここでは、そんなことは夢のまた夢だ。

 テキサス州オースティン。そこにあるというより、それ自体がオースティンという町のようなテキサス大学オースティン校で、客員研究員という(おおかたの意見によれば、しごく気楽な)立場ですごした2年の間、私の生活には、いつもラテンアメリカが影をおとしていた。そもそも、国際文化会館のニトベ・フェローシップに応募したとき、私がテキサス大学を選んだのは、そこに世界でも最高レベルのラテンアメリカ研究所(Institute of Latin American Studies;略称 ILAS)があって、これまた世界有数のラテンアメリカ研究図書館であるベンソン・コレクションがあることが理由だった。1983年以来ブラジルのアマゾンで続けてきた人類学のフィールドワークを博士論文にまとめてひと区切りをつけて、さらに今後の研究の方向を模索するには、願ってもない環境だったのである。どんな分野にせよ、日本のラテンアメリカ研究はまだ日が浅く、だれもが孤軍奮闘しているというのが現状なのだから、「他人の家の庭を自分の家の裏庭だと思ってきた」という厚かましさはあったにせよ、膨大な量のラテンアメリカ研究を蓄積してきたアメリカ合衆国で、沢山の研究者のあいだに身を置いてみることは、それだけでも価値があるというわけだ。しかし私は、フィールドワークに先立つ大学院教育を受ける学生としてテキサスに行ったわけではない。その前に、初めての外国だったブラジルで3回にわたって合計2年ばかりを過ごしていた。このことは些細な違いのようにみえて、そうではない。私は、特別に意識したわけではないのに、自分が「アメリカ合衆国の目でブラジルを見る」かわりに「ブラジルの目でアメリカ合衆国を見る」という見方をしていることに気づかされることになった。私のそんな深層意識は、たくさんのブラジル人の友人たちという恵みを運んできてくれた。それにポルトガル語を勉強しているインドネシア人や子供の頃ブラジルに住んでいた韓国人や中国人たちや、ポルトガル語を話すアメリカ人たちを。私たちが毎週カフェのテラスに集まってポルトガル語でおしゃべり(bater papo)しているのを、「普通のアメリカ人たち」は、どんな目で見ていたのだろうか? なかにはスペイン語を話しているのだと勘違いしていた人たちもいたかもしれない。ブラジル人のなかには、アメリカ人から「ブラジルではスペイン語を話しているんでしょう?」と言われることにうんざりしている人もいた。こんな誤解は日本でも日常茶飯事だから、アメリカ人がとりわけ無知なわけではない。しかも、ここは場所が悪い。テキサスなのだ。

 知ってのとおりテキサスは、かつてはスペインの領土だったのだし、いまでも州の人口の四分の一位はメキシコ系の人々なのである。そのせいもあって、役所の文書やバス停の時刻表も英語とスペイン語が並記されているし、タクシーの運転手のなかには、こちらがスペイン語を話すと知るとえらく饒舌になる人もいる。そもそもアメリカ合衆国には、膨大な数のラティーノ(「ヒスパニック」より、この語のほうが使われつつある)つまりラテンアメリカ系の人々がいて、スペイン語の重要性は日増しに高まっているのだし、日本のアメリカ研究者たちは、早晩スペイン語が話せなくては「アメリカ研究者」の看板を下ろさなければならなくなるかもしれない(と私には思える)のだが、なかでもフロリダやカリフォルニアとならんでテキサスは、もうほとんどラテンアメリカが始まっているのだ。しかしチカーノ(合衆国西部のラティーノの大半を占めるメキシコ系住民)の人々がスペイン語を話したがっているのかと言えば、そのあたりは微妙である。彼らは合衆国では英語を話せなければ「まともな職」にありつけないことを身を以て知らされている。だから、マイアミに基地を置くスペイン語のテレビ局である「ウニビシオン」(これにはメキシコのテレビ局である「テレビサ」が多くの番組を供給している)には、看板番組の「テレノベラ」(ソープオペラ・タイプの帯ドラマ)にまじって、英語学習教材のコマーシャルが頻繁に登場する。「英語が話せれば未来は開ける」というわけである。ところでその「テレノベラ」だが、あれに登場する女性たちは、抱き合っているのでなければ、泣いているか叫んでいる。もちろん印象にすぎないけれど、アメリカ合衆国のテレビドラマの女性たちが攻撃的な調子で男たちに議論を挑んでいるのと対照的だ。ヒラリーは孤立しているのではない。数多くの「ヒラリーたち」という氷山の頂点にいるにすぎない。彼女は危篤の父親の看病の合間をぬってテキサス大学にもやってきて講演したが、彼女以上に関心を集めて、聴衆が講演会場の大講堂に入りきれなかったのが、制度化してしまって隘路に陥ったフェミニズムに挑戦する新しいフェミニストであるカミーユ・パリアだった。「デイト・レイプ」(date rape)なんて馬鹿なことを言うのは女性の地位向上に役立ちなんかしない。そういう関係にある男性とそういう状況の下で性的関係をもつ仕儀に至った場合に、強姦されたなんて被害者ぶるのはやめなさい ………」といった調子で、旧態依然の男たちが勘違いして称賛してしまいさえするような、戦闘的なフェミニズムなのだ。彼女の毒気にあてられる前に、話を元に戻そう。

 そんなわけでテキサスではラテンアメリカが始まっているのだ。ニトベ・フェローシップの面接試験のとき、英語力を試す幾つかの質問のなかで、「ところでテキサスでは何語を使って研究するのですか?」と尋ねたアメリカ人の社会学者に向かって、「テキサスで何語を話しているのか知りません。だから研究は、たぶん英語で、もしかするとポルトガル語で、あるいはスペイン語かも」と私は答えた。そのときは、半分冗談でそう言ったのだが、現実は当たらずとも遠からずだったのである。一学期間学生にまじって参加したスペイン語・ポルトガル語学科の大学院セミナーでも、使用言語はポルトガル語だった。教授も学生たちも英語を母語とするアメリカ人である。彼らとポルトガル語で議論しながら、ときおり私は自分がどこにいるのかわからなくなったものだ。アメリカ合衆国とブラジルの黒人をめぐるシンポジウムのときもそうだった。テキサス大学では、ラテンアメリカ関係の講演やシンポジウムも頻繁に催されていたが、今年の春に数日続きで行なわれたそのシンポジウムには、学内・学外の研究者たちとならんで、ブラジルから黒人問題の研究者や運動家たちがパネラーとして参加していた。最初同時通訳つきで開始された議論は、結局皆がポルトガル語で議論しだすことになって、同時通訳は、その場では明らかにヘゲモニックな言語であるポルトガル語を解さないアメリカ人聴衆のためだけに働くことになった。それはもちろん、パネラーたちがポルトガル語あるいは少なくともスペイン語を理解し、そして話しもする専門家たちだったという特殊事情によるものだが、アメリカ合衆国のなかでシンポジウムが行なわれているにもかかわらず、アメリカ人たちがごく自然にポルトガル語に移行していくことになったのは興味深い光景だった。言語はコミュニケーションの手段なのだ。その場でのコミュニケーションに最適の言語を選べばよい。そこでついでに思い出す話がある。

 今回のテキサス滞在中に、学会で発表するために3週間ばかりブラジルに行ったとき、日葡英語をあやつって通訳として活躍する、以前からの友人の日系女性は、リオで開催された日本とブラジルの精神医学者たちの国際会議での体験を話してくれた。その会議で彼女は日本語とポルトガル語の同時通訳として働いたのだが、発表者のひとりである日本人は、日本語で発表してくれるようにとの要請に対して、原稿を英語で用意してあるからと譲らず、しかも日本語を母語のひとつとして話す彼女に対して、上手いとは言えない英語で抗議したのだという。彼女によれば同時通訳というのは、それぞれが二ヶ国語の間の通訳をすることになっているのであり、この場合、いくら彼女が英語に堪能だとしても、契約にない英語からポルトガル語への通訳をする義務はないのである。自分の英語の発表原稿を母語である日本語に直して読み上げるという臨機応変さが、国際語=英語という図式を毫も疑わない、このお医者さんにはなかったのだし、しかし契約以外のことをやらせようとする図々しさはあったというわけである。彼の英文原稿に何が書いてあったのか知らないが、このお医者さんの患者にはなりなくないなと、私は思う。

 テキサス滞在中に、ブラジルのほかにベネズエラとメキシコにも、それぞれ3週間ばかり旅行した。メキシコではメキシコシティで旧知のメキシコ人たち会ったりしたのちに、バスでマヤ系のインディオが多く住む南へ向かった。その旅のなかでチアパス高地のサンクリストーバル・デ・ラス・カサスを訪ねたときのことである。この町の周囲にはインディオの村々があって、女性たちは毎日、観光客相手に民芸品を売るために町に来る。その日私が教会前広場を通りかかったとき雨が降り出し、女たちは道端に山積みにした商品にシートをかけて、広場の吹きさらしの東屋の屋根の下に雨宿りのために駆け込んできた。そのうち、一人がブリキ缶製の七輪で火をおこして、袋から取り出したトウモロコシを焼き始めて店開きし、他の女たちが客になり、子供に買い与えたりしはじめた。そうしたなかで、トウモロコシを買ってもらえない子が二人いた。6才と3才くらいの姉弟とみえる二人には大人の連れがいなかったのである。最初のうち他の子供たちとふざけあったりしていた二人は、いつからか七輪のわきにおとなしく座り込み、トウモロコシを焼く女の手元を見つめたり、焼けたトウモロコシを頬張る他の子供にチラと目をやったり、焼けるトウモロコシをひっくりがえしたりしていた。そのうち、姉は突然立ち上がると土砂降りの雨のなかへ駆け出していった。ああ母親でも呼びにいくのかとみると、何と商品に被せたシートの下から1才にもならない乳飲み子を抱え出すと一目散に戻ってきて、また七輪のわきに三人で腰を下ろした。さきほどその二人が私に「Da mil」(1000ペソちょうだい)と、まるで遊びの一部でもあるかのように小銭をねだったときに、何もやらなかったことを悔いた。ねだりながら「これだけしかないの」と彼女が見せた財布には、50ペソ貨が3枚ほど入っていたきりだった。焼きトウモロコシは200ペソなのだ。そして1000ペソ≒33セントという奇妙な変換の方程式。彼女は、ときおり悲しそうにしたり、まるで自分もトウモロコシを食べているかのようにニコニコしたり、他の子に叩かれて泣きそうになったり、腹巻きの財布のなかを覗いたりしていた。それでも物欲しそうなそぶりをみせるでもなく、あまりにも健気で、いたたまれなかった。それでも最後には、彼女は100ペソを支払うことによって焼きトウモロコシを購入することができ、まず穂先の方を折り取って下の子にやり、残りを二つに折って弟と分けて、他の客がそうしていたように、トウモロコシの皮を受け皿にして塩とレモンで味付けをして食べ始めた。しかるべき顧客として。でもあの子達はなぜ七輪のわきに座り込んでいたのだろう。なぜあの女は、同じ村から来ているのであろうあの子達にトウモロコシをあげなかったのだろう。そうでなくても、なぜ値引きをしてあげるのなら、あんな辛い思いをさせる前にそうしなかったのだろう。疎外と共生。インディオ同士の貨幣経済。そして征服者の言語であるスペイン語を母語としない子供たちの「Da mil」という実用スペイン語。これをお涙頂戴の物語にしてしまうのは容易い。でも私が書いておきたいのは、あの少女の気品と矜持のことだ。しかしそう言うことで、「だからインディオは薄汚れた現代社会では失われた気高さを保ち続けているのだ」というロマンティシズムに酔うのだとしたら、それは別のかたちの自己満足にすぎない。私が言いたいのは、あの少女のふるまいに隠しようもない人間としての立派さであり、そしてそれを彼女が大人になってももちつづけることを困難にする社会の状況のことなのだ。奇特な外国人夫妻が設立したナーバロム博物館で解説をするアメリカ人のボランティアの女性は、「本当の純粋のマヤ人は、密林に住むラカンドン族だけです」と得々と説明する。まるで町に民芸品を売りに来るインディオ女性たちは「本物」ではないみたいに。ツーリストを案内してインディオの村をまわるガイドの女性は、「ほらこのチャムラ族の村の教会は、シナカンタンとは違うでしょう ………」とビーチパラソル片手に説明する。まるでレッサーパンダは同じパンダでもジャイアントパンダとは違うでしょうと説明するようなぐあいに。
 
チャムラの守護聖人の祭りでは、写真の撮影を禁じている。そのただなかで、メキシコシティから来ましたといった感じの白人の男が、知り合いらしい土地の男を介して許可を得て、祭の模様をヴィデオカメラで撮り始めた。その男の唇に浮かんでいた「私はエキゾティックなインディオの祭りをいま自分のヴィデオに収めつつあるのだ」という薄笑いを見ながら、私は日本人である自分がインディオに似ていて、あの男とは似ていないことを強調したい思いにかられていた。そしてそうすることで、あのようなかたちの収奪を拒否する側に立ちたいと感じていた。しかし、村から町に戻ってくると、裸足で重い荷物を背負って石畳をピタピタと歩いているインディオよりは、非インディオつまり町の住人ラディーノの側に入っていることに安心するのだった。その日の祭りで、私にはわからない言語を話すたくさんの人の波にもまれていて、何がきっかけだったか、ある村人とスペイン語で話し始めていた。「トウモロコシのことは土地の言葉ではイシシというんだ ………日本にはどんな聖人がいるんだ?」バケツに入ったアトルという強い酒をふるまってくれた彼に、あたりの地面にうつぶせて寝ている男達を指して、「酔っぱらっているのか?」と尋ねると、「そうじゃない。昨夜は不寝の番で、今夜も徹夜で見張りをするから、今のうちに寝ておくのだ」と答えた。やはり、わからないことは聞いてみるものだ。

 翌日私は別の村シナカンタンの小学校の庭で、真昼間から酔っ払った二人の青年と話をしていた。彼らは私に酒をすすめ、小さな青林檎をくれ、車で案内してやろうと言う。私が酒と車を断り、土で汚れていた林檎を掌で拭いていると、「信用しろ。コレラを心配しているんだろう、強盗されると心配しているんだろう?」とろれつのまわらない口調で言う。「そうじゃない」と応じながら、この近くの村でフィールドワークをした日本人人類学者O氏の言葉を思い出した。インディオたちは、ときおりサンクリストーバルの町の夜道で酔っ払って「俺はインディオだ!」と叫ぶことがあり、その言葉には、「インディオであることに誇りをもちなさい」と言われつつ差別的境遇におかれている彼らの自尊心と劣等感がないまぜになっているのだ彼は書いている。私がテキサスに住んでいると知ると、二人の酔っ払いは、「テキサスではヴィデオカメラは幾らだ? ここでは高い。金を送るから買って送ってくれないか?」と言い出し、私は「テキサスでも安くはない」と答えるしかなかった。彼らの頭のなかでテキサスとはどんな所なのだろう。それは、メキシコシティにもどるバスで乗り合わせた男達にとっては明確だった。彼らは私がテキサスに帰るのだと知ると、声をそろせて「サンアントニオ、テハス!」(San Antonio, Tejas!)と叫んだ。そう、メキシコ人にとって、多くのメキシコ系の人々が住むサンアントニオこそがテキサスそのものなのだし、テキサスという名称はテハスという本来の名称を英語風に誤って発音してしまったものなのだ。だから19世紀のアングロの入植者にして「テキサスの父」と称されるオースティンの名を戴く州都にある州立大学 The University of Texas at Austinは、テハス大学オースティン校と呼んだほうが良いのかもしれない。

 そのほうが、ラテンアメリカが始まりかけているテキサスのイメージをより正確に伝えることができるような気がするのだ。
                                                      (1993年10月記)