(CROSSOVER No.4,1996)
 

遥かなるアマゾンの隣人 
 
 

古谷嘉章
 
 
 

 ガリンペイロのことから語りはじめなければならない。ガリンペイロとは、黄金掘りのことであり、その彼らが、小屋ほどの小さなものから、二階建の町工場くらいの大きなものまで大小の筏を連ねて、ブラジル・アマゾン西部のジュタイ川に集結してきた。昨年の暮れのことである。ジュタイの町の人々は、こんなことは未曾有のことであると言う。ガリンペイロの出現は、よいニュースではない。ポンプで川底の土砂を吸い上げ、そこから金を分離する過程で水銀によって河川を汚染し、重要な食料源である魚を汚染する。さらに、重労働の反動で町では見境なく金を使い、インフレを招いて地域の需給バランスを破壊する。売春が人心を荒廃させ、マラリアなどの病気を蔓延させる。ガリンペイロは、黄金が出たという噂が広まれば、砂糖に群がる蟻のように集まって来る。それを防ぐ実効性のある手だては、ほとんどない。それに加えて、それによって金銭的に潤う土地の有力者たちは、歓待しないまでも、対策を講じないことによって黙認し共謀する。
 私は、昨年の12月の初めに日本を発って、アマゾンの小さな町ジュタイまで来ていた。ジュタイは、ジュタイ川がソリモンイス川に流れ込む河口に位置し、ソリモンイス川は、マナウスでネグロ川と合流してアマゾン河になる。私がジュタイに行ったのは、科研費による調査のためで、これが二度めである。前回は、さまざまな理由で、本来の目的地である先住民カトゥキナ族の居住するビア川まで到達することができなかった。そして、代替策として近くの先住民の村々をボートでまわっている最中に、突然発熱し、足首を中心に大きいものはピンポン玉ほどの水泡ができ、「こんな病気は見たことがない」という人々の言葉に恐れおののきながら、撤退を余儀なくされたのだった。
 そこに再び行こうというのは、人類学というのは、よほど酔狂な学問だと思われるかもしれない。しかもビア川はマラリアの流行地である。しかし予め言っておきたい。第一に、人類学は探検や冒険の一種ではない。私はかつて、「人類学者というからどんな人が来るかと思ったら牧師のような人が来た」と言われたことがある。私が牧師のようかどうかは別にして、向こう見ずな冒険家を予想していたのだろう。第二に、人類学とは辺境に住む絶滅寸前の「未開民族」を研究する学問ではないし、珍奇な風俗習慣を研究する学問でもない。この誤解は、部分的には、一部の人類学者にも責任がある。人類学者のなかにも、「未開民族」調査が人類学の存在理由であると主張する人達がいる。しかし、エキゾティシズムに訴えて人類学の価値を認めさせようとするのは姑息であるばかりか、誤っている。では私はなぜカトゥキナ族のところに行ったのか?
  その理由は一言で言えば、彼らの社会と私たちの社会が連続した現代社会の一部だからである。この答えは奇妙に思われるかもしれない。なぜならば、人類学は、私たちの文化とは異質な文化を研究する学問であり、「私たち」と「彼ら」の間には文化的断絶があるはずだと、大抵の人々は考えているからである。非連続性が前提されているからこそ、「彼らの文化」を絶滅に瀕する希少動物の類と見なし、私たちとは関係ないが興味深い見世物として、「アマゾンの密林の裸族」のドキュメンタリーが放映されたりする。
 そのように他の文化の異質性を強調する立場は、一見、他の文化の独自性を尊重する望ましい姿勢のようにみえる。しかし、そこで隠蔽されるのは、「彼らの社会」が「私たちの社会」と不平等なかたちで節合(articulate)しているという事実である。ボイア川に侵入しつつあるガリンペイロが、隣接するビア川に入り込んでこないという保証はない。確かに、ビア川は、法的にはインディオ保留地となっている。しかしブラジリアの役所の地図の上に引かれた線と、ビア川の入り口にある看板だけでは、侵入を阻止することはできない。こうした状況の下で、「カトゥキナの人々は、私たちの文化とは異質な独自の文化をもっています。それはガラパゴス諸島の大トカゲのように貴重です」と唱えるだけで自己満足することは、非常に危険である。彼らの生活は、歴史の外部にあるのではない。私たちの生活とある特定のしかたでリンクしている。そうであるならば、どのような節合が形成されてきたのか、されているのかを知らねばならない。つまり「文化の異質性」という断絶のレトリックの下に隠蔽されてしまう「関係」を明るみにださねばならない。
 ここで焦点となっているのは、「文化とは何か」ということに他ならない。「カトゥキナ文化」を、希少動物のごときモノとして収集し、人類文化総目録という「博物館」に収納し展示するというアプローチは、文化についての、有力だが誤った見方に基づいている。収集・目録化は、ガリンペイロの侵入といった「過酷な現実」に対しての、せめてもの人道的対応のようにみえるが、それも別の仕方での侵略あるいは略奪である。そこで奪われるのは、カトゥキナの人々が、自らの文化を生きていく権利である。ガリンペイロは、生活環境を破壊することによって、カトゥキナの人々が「以前と同じように生きていくこと」を困難にする。他方、「博物館的目録化」は、一定の「コロニアル言説」(『比較社会文化』第2巻の拙論文参照)の内部へとカトゥキナの人々を閉じこめることによって、「カトゥキナの人々が以前とは違う仕方で文化をもつこと」を困難にする。
 そういうことを考えていた私を待ち受けていたのは、カトゥキナの人々と「私」とがどのように節合するのかという難題であった。ビア川では、1980年代末から、OPAN という非政府団体が援助プロジェクトを実施しており、ジュタイの町に2人が滞在している。OPAN の目的は、カトゥキナ社会が周囲の社会から搾取されることなく経済的に自立して、自らの未来について決定できるように支援することであるが、今のところ、マラリアを初めとする病気の治療に忙殺されている。調査への協力を依頼した私に対して、OPANの2人は、「いったいおまえが行くことが、カトゥキナにとってどういう意味があるのか、調査の見返りとして何を彼らに与えることができるのか?」と尋ねた。最も安易な解答は、サンタクロースになることであるが、私は調査を金で買うような関係を作りたくはなかった。しかし、「私の研究が長い目でみれば彼らのためになりうる」という議論が、この場合、いかなる説得力をもちうるか? そこで、手土産としては農作業に不可欠な道具がよいとの、OPAN の2人の助言に従って、カトゥキナの成人男性全員に山刀を持参することにした。いくつかの店の山刀をほとんど買い占めて、全部で100丁になった。ある店の主人は、「こんなに買って何にするのだ」と尋ねた。「インディオにやるのだ。ガリンペイロが侵入して来たときに追い出す武器として」と私は答えた。
 その山刀を積み込んで、OPAN の2人と水先案内人の息子と病み上がりのカトゥキナの青年と一緒に、25馬力のヤンマーのディーゼルの機嫌をとりながら、ビア川を目指してジュタイ川を遡ったのである。このカトゥキナの青年は、高熱でマラリアの疑いがあり、診察のためにジュタイに連れてきていたもので、ようやく帰宅できる見通しがついたのだった。川を遡る途中にも、ガリンペイロの筏にいくつも出会った。カトゥキナの最初の村に着いた私たちは、ガリンペイロの危険について説明し、絶対にビア川への侵入を許してはならないと繰り返した。他の村々を目指して川をさらに遡る他の4人と別れて、私は1週間ほどその村に滞在した。その体験については、どこかで書くことになるだろう。ここでは、彼らが「カトリセンコー」という日本語を覚え、別れ際に、カヌーの中から笑いながら「カトリセンコー」と叫んで私を見送ってくれたことだけを書いておくことにしたい。

カトゥキナの子供たち  ビア川の風景