アマゾンでの補修あるいは捕囚

「テーハ・ド・インヂオ」(インディオの土地)と彼女は苛立たしさと諦めがないまぜになったような口調でつぶやいた。傍らのイスでは、まだ幼い二人の娘がもう遊び疲れていて、時折おもいだしたように「ママ、飛行機に乗れるの?」と彼女を見上げてたずねる。「大丈夫よ」とこたえながら、彼女自身がいまにも泣き出しそうだ。わたしたちはマナウスの空港のロビーで、「過飽和の」という形容詞さえつけたくなるような微動だにしないアマゾンの暑さの中で、朝の五時すぎからもう六時間以上もこうしているのだった。「わたしたち」には、もう一人含まれていた。サンパウロの若いエンジニアで知的なファッションモデルといった風采の彼は、時折立ち上がっては、書類カバンから1日刻みの旅行スケジュールが書き込まれたファイルをとりだし、空港ロビーの公衆電話まで出向いて、サンパウロにいる自分の秘書や、今後予定されている各地の訪問先に、ばかげた理由のために予定の飛行機に乗れず予定がズレ込むことを告げていた。

まったくばかげた理由から、私は朝七時マナウス発のベレン経由サンルイス行きの便に乗りそこない、あとの四人は、同じ災難に見舞われた偶然の道連れだったのである。昨日まではすべて順調だった。何しろ、私はちょっと「月面」にまで足を伸ばしたほどだったのだから ………。

昨年の七月十一日に日本から一日以上かけて真冬のサンパウロに着いた私は、以前のブラジル滞在時(一九八三年十二月〜八五年五月、一九八七年十月〜八八年一月)以来の旧知の友人や研究者仲間と連絡を取ったり会ったりしたのち、十五日には、慌ただしく西武開拓前線の町ポルトヴェーリョ(ロンドニア州)へ発ち、そこで合流した国立民族学博物館のN氏とともに、十八日にアクレ州の州都リオブランコに向かった。

ここはもうペルーやボリビアとの国境地帯に近い。ポルトヴェーリョから飛び立った飛行機は、果てしなく広がる熱帯の密林の上を飛ぶ。私がまだブラジルにいた九月に、計器が故障してパイロット自身がどこにいるのかわからなくなり、とんでもなく見当違いの密林の中に不時着するという飛行機事故があったが、アマゾンの上を飛んでいるときは、よほど地理に精通していない限りアマゾンの上を飛んでいるとしか言いようがない。陳腐な表現だが、「深緑の絨緞」そのものである。但し、毛足はかなり長くて、ブロッコリーを敷きつめたようだし、所々に赤茶けた亀裂が走って、その周りが禿げている。熱帯林の破壊については、いまさら説明するまでもないだろう。広大なアマゾンの密林であっても、無限でも不死身でもないのである。そしてこの「人類に対する犯罪」に日本が一枚噛んでいるも知らない人は無いはずだ。この環境破壊の問題は、当然充分な調査がしかも緊急に必要とされるのだが、私たち二人のリオブランコ行きの目的はそれではなかった。もっとささやかだったし、同時にもっと途方もなかったのだ。

リオブランコでの一週間に私たちが何を調査したのかを説明するのは少しむずかしい。この調査は「ブラジル民衆文化に関する研究」というタイトルのついた文部省科研費の海外学術調査で、今回で二回目にあたる。日本から三人、ブラジルから三人という構成で、各人がブラジル各地で特定のテーマを調査すると同時に、場合によっては共同で調査するというのが、その計画だった。そういうわけで、私の今回の調査の主たる目的地である、北東部の乾燥地帯との境に近いアマゾン東端のコドー(マラニョン州)へ向かう前に、N氏とともに、アマゾンも西の端、アクレ川河畔の町リオブランコの飛行場に降り立ったのだった。

そこで調査の目的だが、この地域には、もともと二種類の植物を原料とする幻覚性飲料があって、インディオのシャーマンによる治病儀礼などで使われていた。そうした伝統の上に立って、一九三〇年にゴム採取人として北東部から働きに来ていたある黒人が、サントダイミとよばれるその幻覚性飲料を「非日常的な神秘体験」を得るために儀礼で摂取する新興の宗教集団を組織した。この宗教は彼の死後、分派を重ねつつ現在この地方を中心に広まっており、リオやサンパウロのような大都市にも到達しているのだが、その発祥の地がリオブランコだったのである。その宗教集団の形成プロセスと現在の活動を人類学的に調査するというのが私たちの目的であり、私個人としてはそれに加えて、従来から調査をつづけているアフリカ系の憑依宗教との関係を調べようというもくろみもあった。そして幸運にも実際に両者が結合している興味深いケースにも出会うことができた。この二つの宗教伝統は、本来まったく別のもの(一方はアメリカの先住民に由来し、他方はアフリカ各地から「輸入」された奴隷に由来する)なのだが、そういうものが混ざりあい全く新しいものを生み出していったてしまうダイナミズムこそが、ブラジルの民衆文化なのである。

そこで私たちは、人類学の正統的な研究方法である参与観察法を用いて調査をおこなった。つまり、儀礼にも何回か参加し、幻覚性飲料も飲んだ。そして密林の中の一軒家での儀礼に参加したときに私は、ダリの「聖アントニウスの誘惑」の怪物さながらに「月面」を歩きまわり、周囲の木々の葉は緑のコブラのごとく鎌首をもたげてゆらめき、日常の姿が仮の姿にすぎないことを顕にした。N氏はと言えば、彼に向かって月がどんどん近づいてきて、あたりの木々の表面には奇怪な顔が現れたという。このように「効果」は各人で違うのであり、そこがまた興味深い。こうした諸々のことを、人類学の文献ではしばしば「別のリアリティ」とよび、そうしたことを体験する意識を「意識の変化状態」(変性意識)とよぶ。こんな学術用語をことさらに記しておくのは、こうしたことが「まっとうな」研究の対象になりうること、文部省科研費の趣旨にそぐわないものではないことを言いたいからにすぎない。むしろ。ブラジルへの旅費だけで「月面」まで行ったのだから誉められてしかるべきかもしれない。しかしこのことについてはこれ以上は書くまい。もう長いことマナウスの空港に他の四人を待たせているからである。

こうしてリオブランコでの非常に充実した調査を終えたN氏と私は、七月二五日の午後の便で州都というにはお粗末な土埃の舞う町を後にした。そして中継地のポルトヴェーリョで彼と別れ、私をのせた飛行機は、日暮れの陽光がソニーやヒタチやヤシカの大きな看板を赤く染めているマナウスの空港に着陸し、タクシーをとばして一年半ぶりのマナウス市街に入ってきた頃には、もう日は落ちていた。そこまではすべて順調だったのだ。西部戦線は異状がなかったのである。しかし、そのとき虫の報せがあってしかるべきだった。そもそも、数年前に私がはじめてベレンからマナウスに飛んだとき、出発当日の朝、それまで一ヶ月以上も滞在していたベレン(アマゾン河口の都市)の小さなホテルのフロントで、もうなじみになっていたフロントの女の子は、「チェックアウトするから、誰かに部屋の荷物を取りに行かせてくれ」という私に向かって、唇の端に皮肉っぽい笑みをうかべながら「何を使って旅行するの? 飛行機だったら動いていないわよ」と恐るべきニュースを告げたのだった。なんと、勤務条件をめぐってもめていた労使の交渉は決裂して、その日の午前零時からすべての航空会社の組合はストに入っていたのである。ストに遭遇したのは初めてではなかった。しかし、よりによってなぜ今日から? そのとき私がした東奔西走の危機管理について事細かに書こうとしたら、九大学報にエッセイを連載しなければならないのでやめるが、そういうわけでマナウスは私にとっては鬼門だったのである。だから私は今回は用のないマナウスに寄りたくはなかった。しかしリオブランコからサンルイスへの直行便がないために、しかたなくホテル代も含めて何もかもが異常に高いマナウスに一泊して、翌朝七時の便でサンルイスにむかう心づもりだったのだ。

ふつう国内便なら出発一時間前にチェックインすればよい。マナウスの場合、今世紀初頭にゴムブームが突如終わりを告げたのち長く低迷していたアマゾン地域の産業振興を目的として非関税地域になっている。町の中心部は秋葉原さながらで、そこへ安い電気製品を買い出しにくるブラジル人たちに対して購買額を制限しているため、空港に税関がある。その所要時間を見越して私は、朝も早く、ホテルの朝食も始まっていない暗いうちにチェックアウトして、五時半には空港に着いたのだった。そしてカウンターでにやけた航空会社の係員に言われたせりふが、「もう遅い、今は出発三時間前に来てなけりゃいけない。」事の次第はこうだった。この期間、滑走路の補修のために(彼の言葉どおり言えば、滑走路にペンキを塗るために!)午前中は空港を閉鎖し、町をはさんで反対側にある軍の空港を使っていて、バスで乗客をそちらへ運ぶので三時間前には来ていなければならないのであり、それはブラジル中のすべての旅行代理店に連絡済みのことで、我々の側に落ち度はない。これが彼の言い分だった。ここで呆然とならない程度の経験は、いままでブラジルで生活するなかで既に否応なしに積んでいた。いや積まされていた。「次の便を予約したい。」すると彼はまるで部外者のような態度でニヤニヤ笑いながら言った。「ここでは予約できない。コンピューターは故障している。いつ直るかわからない。公衆電話から市内の営業所に電話して予約するしかない」。

サンルイス行きの便は夜と深夜に一便ずつ、途中のベレンまでなら夜に二便あったが、数日後まですべて満席だった。それどころか、マナウスから他の都市への飛行機はすべて満杯だったのである。時期が悪い。七月、八月は、ブラジルでは冬で、アマゾンでは夏だが(このあたりの説明は省略)、いずれにせよ、ブラジル人はマナウスに電気製品の買い出しに殺到し、欧米からはツーリストがおしかけるハイジーズンなのだ。夜の便のウェイティングリストを開くのはいずれも夕方の五時頃だという。旅行社に電話して「何とかしろ、そちらの責任だ〕と。やんわりすごんだり、公式には存在するはずのないウェイティングリストのウェイティングリストに名前を書かせたりしていろいろ試みたが、とにかくシュートしようにもボールがない、といった感じで、五時になったって空席があるとは限らないけれども、冷房もない開け放しのこのロビーでそれまで待つしかない。そして同じ(あるいは、ほとんど同じ)境遇に陥っていたのが、ベレンに行こうとしていたサンパウロのエンジニアと二人の娘をつれたリオ在住の女性だったのである。

彼女の場合、夫だけ先にベレンに行き、親類の家に何日かよけいに滞在したあとの三人が、今日ベレンの空港で出迎えている夫や父親と合流するはずだったのだ。彼女もはじめのうちは、リオの旅行社やベレンの夫に電話してせわしなく虚しい試みを続けていた。しかし何時間も経つうちに私たちは、そうした試みが徒労であることを身をもって悟らされ、そして彼女の口から出たことばが、「テーハ・ド・インヂオ」だったのである。南部のリオやサンパウロとはちがう、現代社会の常識が通用しない遅れた土地、ブラジルの発展のためにはお荷物でしかないインディオ的価値観の支配する別世界。しかしそれをたんにブラジル国内の先進地域の後進地域に対する偏見とみなすことはできない。彼女はこの地方の出身だったからである。愛着と軽蔑のないまぜになった複雑な感情。ブラジル的なるものを身体で愛しつつ頭で軽蔑するブラジル人の心性。 ………なすすべもなく待つ間、私たちは世間話をして、ブラジルをけなしたり、でも全く悪いばかりじゃないともちあげたり、黙ったりしてすごした。私がリオブランコで調査した例の宗教についての本を読んでいると、彼らも見せてくれと言ってとばし読みした。彼女は、あなたが調査したみたいな幻覚剤を飲んでいればこんな状態にも耐えられるのにと言った。私は、「それどころか、もうこの子たちはベレンの空港でお父さんに会えてますよ」などと軽口をたたいた。

 ………結局、あれやこれやを割愛していえば、二つのウェイティグリストが空振りにおわったあげくに、十五時間近く経った夜の八時ごろ、三つ目のウェイティングリストに何とかすべりこめて、職員が立番している税関へのガラス扉を通過しようとしていた。チケットを調べて一人一人通していた係員は、私のサンルイス行きのチケットを見て、「空きがあるのはベレンまでで、ベレンからサンルイスまでは満席だから乗せられない」と冷たく言い放った。「ベレンまででいいんだ」「そのためには中にある航空会社の事務所で書き換えをしなければならないが、この便は定刻から遅れているから、もうその余裕はない」。さすがに私も呆然とした。何しろもう一五時間もほとんど何も食べずに、外気と同じ気温の空港ロビーにいたのである。しかもただ待っていたわけではない。係員がいつ、つめよる客に押し切られて、あるいは金を握らされて、ウェイティングリストの記入を予定より早く始めてしまうかもしれないと、数カ所のカウンターに目をひからせながらの十五時間である。

ここで私は、ベレンが目的地の四人の道連れと別れた。そのあと、私の頭は力をふりしぼって危機管理の努力を再開した。しかし私の身体はそれを拒否した。そして二十分ほどののち、ひんやりとした夜の外気のなかで密林の上に満天の星が輝く夜空を、マナウス市街に全速力でとばすタクシーの窓から眺めていたのである。むかし日本で放映されていたアメリカのテレビ番組に、ある一人の男が未来都市の要塞のような収容所から何度脱出しようとしても、見つかって連れ戻されてしまうドラマがあった。あれは子供心にも不条理なドラマだったが、私はいまや彼の心情を深く理解した。そして一生マナウスを脱出できない囚人となったような妄想がふと頭をよぎった。

 ………しかし私は、翌日の深夜にはサンルイスの空港に降り立ったのである。どのようにして? 「天は自ら助くるものを助く」。そして数年ぶりのサンルイスに数日滞在したのち、そのあと一ヶ月あまりをすごしたマラニョン州内陸の田舎町コドーに向かったのであるが、本来の調査地にたどりつく前に紙数が尽きてしまった。それについては、(ブラジル人がよく言うように)「神様がそうお望みになるならば」いつかまた書く機会があるかもしれない。

★文中の「アメリカのテレビ番組」なるものが、何であったか判明した。邦題「プリズナー NO.6」
(原題 The Prisoner)というイギリスの番組だった。(2005年9月記)